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「漱石の恋」


「あなたは余っ程度胸のない方ですね」
 縁側へ持ち出した低い洋椅子に腰掛けて、新聞を開いていた楠緒子がそう呟いた。
 とはいえ彼女の周りには誰もいない。独り言である。
 本郷西片町にあるこの屋敷辺りは、昼時を過ぎると東京帝大の学生たちが往来して賑やかになる。
 けれど午前もまだ早い今時分は、界隈ごとひっそりとしたものだった。それで楠緒子の呟きの音は、くっきりと粒立って発話者の耳に届いた。
 誰かに聴かれたかしらとすこし身を固くした楠緒子は、すぐにいや聴かれたって構いやしないと思い直した。
 物語の音読を規制する法でもあって? あるはずもないでしょう、と。
 そう、楠緒子はただ、文芸欄に載っていた連載小説中の一節を、ふと声に出して読み上げただけだった。
 物語とは先週から掲載が始まったばかりのもので、『三四郎』と題されていた。
 三四郎という実直な九州男児が、東京帝大へ入るため汽車で上京する場面から話は始まる。途上名古屋で一泊するが、乗り合わせた女性から「心細いゆえぜひに」と同宿を懇願され、承諾する。未だ女性を知らぬ三四郎、宿では必要以上に相手を遠ざけてしまう。
 そうして何事もなく朝を迎えたとき三四郎は、先に楠緒子が読み上げた台詞を女性から浴びるのだった。
「それにしても、台詞があまりにそのままじゃありませんこと」
 と、楠緒子が今度は彼女自身の言葉を呟いた。小説というのは、こんなにありのままを書いていいものかしらん。そう訝りながら、小鼻を萎めてそこから息を抜いた。
 そのとき部屋の奥の襖が開いて、ひとつ影がこちらへやって来るのを楠緒子は認めた。夫の保治である。
「お勉強かい」
「いえ。ただの新聞ですわ」
「朝日か。夏目君の拵え物でも載ってるかい」
「ええそれはもちろん。何しろあの方は小説記者として入社なさったのだから。毎日休まず小説を載せるのが、一番の義務なのだわ」
 ちょうど先週から新しい作品が始まったの。と楠緒子は説明しようとしたが、止した。夫は文学を解さないから。
 いや、帝大で美学を講じる教授の任に就く彼が、文学の味を知らぬ訳はない。若い時分から大秀才と呼ばれた人物である。文学史の知識にも当然明るいはず。
 だが楠緒子の知る限り、彼は現代の作物に一向積極的に親しもうとしない。それは頑なに、と言っていいほどの態度だと楠緒子には感じられた。
 帝大の同窓で旧知の夏目漱石が、新作を日々せっせと載せているのを知っていても、
「それはご苦労なこと。精が出て何より」
 とのみ言い、読もうとする素振りもない。
 楠緒子が女性ながらに短歌と小説をものすることについても、反対されたことはないにせよ、さて内心はどう思っているのか。正直なところが楠緒子に読み取れぬままだった。
 ともあれ夫の文学的無関心は、楠緒子が『三四郎』を読み耽るにおいて非常な好都合であった。今作は楠緒子にとり、知らずかなり際どい内容になっていたゆえ。
 例えば楠緒子は、
「あなたは余っ程度胸のない方ですね」
 という作中の台詞について、前の行の「女はその顔を凝と眺めていた、が、やがて落付いた調子で、」という文言を読み終えた時点で、寸分も違わず次なる一行を言い当てられた。
「そりゃ分かるに決まっている。これはまるまる、私の吐いた言葉だもの」
 楠緒子は内心で思った。かつて若き日の漱石、夏目金之助に楠緒子の浴びせた言葉が、そのまま活字になっていたのだ。
 それにしてもよく一言一句を覚えていること。そのことに驚きつつ、楠緒子は平静を装って新聞を卓上に伏せた。小説を脇へやり保治に向き合おうと考えた。だが保治の方は楠緒子の傍を通り抜け縁側から庭へ降りていき、秋の陽を浴びる柿の木のもとで、実の成り具合を熱心に検分していた。楠緒子はその背中をぼんやりと見つめるばかりだった。


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