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(新版) 「セールスマンの死」1

 帰宅ラッシュの総武快速線に乗っていると、ジャケットの胸ポケットでスマホが着信した。
 ん、どこから? いろんな可能性が頭をよぎるも、すぐ目星はついた。
 いまどき夜分に携帯が鳴るなんて、よほど緊急性か親密性がないとあり得ない。
 そしてこの電話は、きっと「緊急」のほうだ。
 ただ、タイミングがまずい。立っている乗降ドア付近は混み合って、身動きもままならない。胸元がブブブブブ……震えるまま、身体を固くしてやり過ごす。
 振動が止んで息を吐いた。発信先の確認くらいはすぐできるけど、画面を覗く気になれない。
 だって見たが最後、事実は確定してしまう。知らんぷりさえしておけば、まだ何も起きていないと自分を偽っておけるだろうに。
 車内が息苦しく感じられた。違う空気を吸いたかった。車窓から外を見やっても、黒闇が広がるばかりだった。
 窓という窓には、乗客たちの姿が反射して映っていた。黒バックに浮かぶ人影は存在感が希薄で、一人ひとりが何を想っているかを知る由もない。俯いてスマホに見入っているこれらの顔が何かの拍子に熱気を帯びたり、目尻をじわり涙で濡らすさまなんて想像できなかった。
 窓に映る人群れにはもちろん自分もいて、目が合ってしまった。周りと比べとびきりうつけた表情をしているのがショックで、とっさに顎を引いて取り繕った。
 それにしてもこの顔かたちには、見覚えがある……。
 つい先日これとよく似た、ただし数倍は痩せ細った顔を、まじまじと眺めた記憶が甦ってきた。
 そうあれは、死相の浮き出た父の姿だった。


 仕事のやりくりをなんとか済ませて、愛知県の実家へ帰ったのは先月のこと。
 生きた父をひと目、見ておくためだ。
 今年に入ってから父は、自宅のリビングに介護ベッドを据え、ずっとその上で過ごしていた。
 昨年の検診で見つかった食道癌の手術はなんとか終えたが、予後に誤嚥性肺炎を起こし入院は長引いた。その間に慢性白血病の併発も判明した。
 もう万全に戻る見込みはなかった。時節柄、病床を長く占めていることへの風当たりも強い。あとは自宅で緩和ケアで、と話が着いた。
 退院の際、御礼かたがた主治医の先生と短く話ができた。長男として聞いておきたい、あとどれくらい持ちますかと問うと、
「余命、ですか。そういうのはある程度若い方に告げるんです。お父さんのように高齢で重篤な場合、余命は数えません。明日急変したって不思議はないし、それが半年後かもしれない」
 なるほどそういうものかと納得した。
 そうして自宅に移って二ヶ月ほど経ったころ、日々父を看ている母から、かなり弱ってきた、いよいよみたいだと涙ながらの連絡を受けた。生きているうちひと目会っておくべきだろうと、急ぎ帰ることにしたのだった。
 新幹線と名鉄線を乗り継いで夕刻に実家へ行き着くと、往診に来てくれた近所の開業医と玄関先で出くわした。
「息子さんかね。遠くから、えらかったね」
 と労ってくれた老医者は、続けて小声で告げた。
「いいときに帰ってこられたわ。死相が出とる、もう長くないよ」
 容態が悪いのはわかっていたのだ。ともあれ間に合ったのをよしとしよう。
 医者を送り出して玄関を上がり、リビングのドアを開けると、はたして痩せこけた父の顔が目に飛び込んできた。入れ歯を外して萎んだ口元も窪み切って生気のない両眼も半開きで、呻き声交じりの荒い呼吸音だけがやたら響き渡っている。
 ソファやテレビが運び出されて生活感は払拭され、すっかり病室然としたリビングには、大きなベッドとサイドテーブルのみ置かれていた。看護のしやすさを考えてか、ベッドの仰臥面は人の胸元に迫る高さに調整されている。その上に載せられた枯枝のような父の肢体は、否応なく眼前に迫ってくる。
 何をするでもなく枕元に呆然と立ち、それで看病をしているつもりの母親に適当に言葉をかけ、枕元へ回り込んで父の顔を母と並んで覗き込んだ。皮膚にはもう張りも厚みもなく、頭骨のかたちが露わになっている。ごま塩色の無精髭の一本ずつが、ずいぶん太く目立って見える。
 まさに死相だなと思った。荒い呼吸に合わせて胸から首にかけてが上下していなければ、遺体ですと言われたって何ら疑問も持たない。
 これでいまは眠っている状態だという。母が言うに大半は夢うつつで過ごし、不意に水を所望したり体勢を変えるよう言ってくるときだけ意識が戻るが、次にいつそうなるかはわからない。
 毎日がヤマ場、といったところか。それでもこの目で様子を見ることができれば、状態の良し悪しを問わず安心はする。務めを果たした、あとは実家でのんびり一泊すればいいかとの気分になった。
 晩の食事は出前をとってもらい、量だけはたっぷりの上鮨をたいらげた。さほど新鮮じゃないネタがいつになく生々しく感じられて、ちょっと気持ち悪かった。
 風呂をつかい、空調が効いて快い「病室」に涼みにいくと、頃合いよく父が目を覚ましていた。
 息子が顔を見にきたことに気づくと父は、
「ああ……。どうしただね、そんな。わざわざ」
 と憎まれ口を叩いた。八十余年にわたり培われた、無口でガサツですぐ斜に構える性向は、今際の際だからといってそう変わりはしないよう。
 いや名古屋に仕事があって、ついでにちょっと寄ってみたのだと話を合わせてやる。
「そうか……。いや最近、急によう起き上がれんようになってな」
 今はちょうど具合が悪いといった口ぶりを続けるので、じきによくなるだろうと伝えると、
「よくなるかねえ……」
 強気と弱気が半々な声音で応えた。よくなる気持ちがまだあるのかと驚いた。
 まだ言葉が継がれるかと口元を眺めていたが、だんだん息が荒くなって、つらさがぶり返してきたみたいだった。瞳の中にかすかに点いた灯がまた消えかけている。苦しげな呼吸の合間に、 
「まあありがとう。じゃあに」
「はいまた。おやすみ」
 と一往復だけ言葉が行き交い、あとは雑音交じりの呼吸が続くだけになった。僕は室内灯を消して、かつての自分の勉強部屋に敷かれた布団に潜り込んだ。


 先月の記憶を反芻しているあいだ、総武快速線は勤勉に規則正しく車体を揺らし続けていた。車内アナウンスが、家の最寄駅への到着を報せている。車内はいつしか空席が目立っていた。ドア付近に立ちんぼうなのは自分ひとりだった。
 ホームに降り立つと、すぐ目に入ったベンチに腰掛けて着信履歴を開いた。案の定、母からだった。
 留守番電話にメッセージの吹き込みがある。内容は、まあ予想通り。
「ああ、つながった……。たったいま、亡くなりました」
 なんとか聞き取れるか細い声で、それだけの言葉が入っていた。
 スマホを耳から離し、視線を上げる。改札口へ向かう人の流れが視界を埋め尽くしていた。
 父は死んだが、パッと見、世界に変化はなさそうだった。何の矛盾も生じていない。それはそうか、人がひとりこの世から消えたとて、この世がいちいち揺らいじゃいられない。
 ましてやうちの父なんて、平凡このうえない男だった。駅を行き交うたくさんの誰ひとりとして、これまで父のことを知らなかったはずだし、さっき地上からいなくなったことに気づくこともない。
 となると、いったい何だったんだろうな。あの人の八十二年間というのは。
 身内が気持ちを向けてやらないかぎり、そんな問いさえ掻き消されてしまうほどに儚いものだ。
 そうか、誰かが思いを馳せなければ、存在したことの意味も事実も残らないんだ。大変なことだな。存在した意味や事実くらいすこしは証明してやりたいけど。
 がしかし……。問題は、自分の中に心の揺れや動きが生まれるかどうかだ。
 おれ、泣けるのかな。
 それが何より気になった。
 明日になればすぐ新幹線に乗って、通夜へ向かうことになる。そうして明後日には葬儀か。家に戻ったらすぐ準備しなくては。少なくとも実際的な段取りを考えるのに心を砕いている今は、自分が涙を流すような心持ちになるようなことは、ちょっと想像もつかないのだった。


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