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第三十二夜 『青年時代』 トルストイ  月夜千冊

 トルストイの自伝的小説で、主人公は19世紀のロシアで大学生の身分にある。
 食うに困らぬ程度の恵まれた境遇で青年時代を送る者ならたいてい、自己を養い完成させることに強く関心が向くのであって、そうすると決まって自意識や自信が過剰になってしまうもの。主人公もまたよくある落とし穴にハマっている。これこそ「青年の典型」という感じ。
 思えばトルストイはたくさんの作品で多くの「典型」を生み出した。揺れる心を抱えた妻の典型、戦争の現場の典型、ロシア民衆の典型……。ここでも青年の一典型をつくっている。ある典型をつくるというのは、創作の大きな目標だ。

 主人公は大学に進み、知的階級に属する一人として道徳的完成を志向せねばと考える。内省しまくる性分のようで、これまでの自分はダメな人間だったが、今すぐ別の人間になるのだと決意を固める。
 ただ、そこが経験の浅い青年時代の特性でもあるのか、彼の目指す像がちょっと浅はかなのが残念なところ。彼が志向したのは、「品のよい人間」になることだった。それはどんな人間か。上手なフランス語を操り、磨いた清潔な爪を持ち、お辞儀・ダンス・会話の才に富み、無関心で洗練された倦怠の表情を常に浮かべているのが大事なのだと、彼は大真面目に考えてその実現に腐心する。それらは当時の貴族社会で、表面的に重視されていたことどもだ。

 こういうの、身に覚えがあって恥ずかしくなる。自分が何者かでありたいと願い、外形的にお手本と定めた憧れの対象に近づいていって、すぐにそこそこ「何者か」になれたんじゃないかと思い込んでしまうという思考。陥りがちだ。

 主人公はとりわけ、大学生という知的階級にいることへの矜持と自慢の念が強いみたいだ。洒落たことを言えるようになりたいと願い、ときに大人と接しながら、本は中途から読むほうが好きなどと自説を述べる。

「興味が倍になりますからね。つまり、いままでにあったことと、これから起ることを推察するわけですから」

 と、微笑ながらに言うのだ。いけすかない。
 他にも、愛には三つの種類がある、すなわち美しい愛、献身的な愛、実行的な愛だと口走ってみたり。このわかったふうな言いっぷり。聞かされるほうの顔面にはさぞわかりやすい冷笑が浮かんでいたのではと、読んでいるこちらがヒヤヒヤしてくる。

 主人公が「品のよい人間」になるよう努めるのはまあ構わないのだけれど、肝心の学業にはちっとも気持ちが向かない。
 当初は表立って問題にはならないものの、衝撃的なのは話の終盤、1年次の期末試験が迫ってきたころだ。
 18科目の試験を彼は抱えていた。が、どれ一つとして講義も聞いていないし、ノートもとってはいない。どうやって試験に臨むつもりかということなど、一度も頭に浮かばなかったのだ。「品のよい人間」であることを楽しむところから生ずる靄に、頭の中はすっかり包まれていた。
 学業面では完全に乗り遅れた。友人たちが日々開いている試験勉強対策の集いに顔を出してみるも、どうにも身が入らない。遅れに遅れた学業をどう立て直せばいいか、その道筋すらもわからない状態だった。

 否応なく、試験の日はやってくる。

「問題の記されている便箋に手をふれたときになってはじめて、恐怖の軽い悪寒が背筋を走りぬけた。」

 主人公はあっさり落第してしまう。
 事態を受け入れられなくて困惑する彼の描写が、なんだか怖かった。身に覚えのある心の動きだったからだろう。

「わたしは自分の不幸をだれかのせいにしようと努めた。だれかがわざとこんな目に会わしたのだと考えて、自分に対する数々の陰謀をひねりだしてみたり、教授たちや、旧友たち、ウォロージャ、ネフリュードフなどへの不平をならべ、大学へ入れたことに対してパパを恨んだ。」

 心内が荒れまくったあと、すこし落ちついた主人公は、「生活の信条」と表紙に書かれたノートをとり出して開いてみた。青年期のとば口に立ったとき、誓いを立てるようにしてつくったノートだった。が、中身は何一つ記されていない。白紙のままだった。外形的に青年にはなったものの、内面は空っぽのままだったことを、突きつけられたのだ。
 ことここに至って、

「わたしは泣き出した」

 ようやく、後悔と道徳的な衝動との瞬間が訪れた。
 主人公は、改めて生活の心情を書こうと決心するのだった。
 こうやって一歩ずつ、人は大人になるのだなというのが、手にとるようにわかる。ていねいなさらけ出し。よき自伝だなと実感する。


『青年時代』 トルストイ  新潮文庫


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