「スカルプター」 改
うぐっ。んぐっ。むむぐっ。
遠慮のない嗚咽が、大きなホールに響いた。
涙と洟を盛大に流しているのは、生成りスタンドカラーシャツにゆったりシルエットの黒ジャケットを羽織る大柄な老体である。それで余計に人目を惹いた。居合わせた全員が彼を見ていた。
注目を意識したわけでもなかろうが、
「なんだこれは。こいつだけ哀しみの只中にいやがる」
老体はグシュグシュ顔面で音を立てつつ、ひとりごとにしてはやけに大きい声で言った。
視線の先には、ひとつの彫像がある。
それは女性の半身像だった。両手で持ち上げられそうなほどの、ささやかなサイズ。粘土状のものを捏ねてザックリかたちをとっただけの、ひどく素朴なもの。遠目には鼠色の土塊が、ドチャッと固まっているだけにも見える。
フロアに居並ぶ他の精緻な彫刻作品と比べれば、いかにも地味だ。埋もれて目立たず、老体以外の審査員はすでにその作品の前をとっくに素通りしていた。
ここは「スカルプター発掘コンペティション」の審査会場である。流通業大手のT倉庫が主宰し、彫刻を志す若者なら漏れなく応募する国内随一の公募展。今年も三百超の応募作が集まり、それらはT倉庫が湾岸に有するホール内にずらり整然と並べられた。
そこに五人の審査員が足を運び、全作品を同じ条件の下で一挙に見て、これぞと思うものをピックアップする。選び出された作品だけが会議室へ運び込まれ、五人が議論を重ねてその年のグランプリを決める手筈になっている。
今はホールでの「一次審査」の段階。この時点でかくも一作に入れ込むとは。H美術館館長たる蓮老人はたしかに熱情ある人物として日本美術界で知られる。だがこの審査員を務めてきた過去五年間で、涙を流すような事態はついぞなかった。
ただならぬ気配を察して寄ってきた事務局の小俣さんが、声をかける。
「蓮先生、何か問題でも? この作品ですか。お気に障る点でもありましたか」
言い終わらぬうち、蓮さんが言葉を被せる。
「いや違う。そうじゃない。見つけたぞ、彫刻家を!」
涙と洟を拭いながら、さらに言い募る。
「これまでどこにもなかったものを、この世に在らしめている感があるだろう。そして見よ、内側からせり上がってくるこのボリューム感。他と違ってこの彫刻だけ、単なる『殻』じゃない。中身が詰まってるのが伝わってくる」
そう急に言われてもという態で、小俣さんの反応はどこか腑抜けていた。
「そういうものでしょうか。今年の統一テーマは『悲しみ』ということになっています。皆、創意を凝らしてそれを表現しようとしておりますよね。その点こちらの作品は、どこかあきらめてしまったような。中学生が美術の授業で、提出期限ギリギリに慌ててつくったような代物に、私の眼には映ってしまうんですが」
「分からんものかね。この彫像の湛える哀しみが。これはアレだよ。世界一有名な女性がモデルになっているのに気づかんか。ほら、誰でも知ってる『モナ=リザ』だ。『モナ=リザ』といえば謎めいた微笑みだよな。その最大の特質を、この彫像は剥ぎ取っている。微笑を取り払われた『モナ=リザ』はどうなるのか。残るのは底なしの哀しみだったわけだ。
この作者はなぜそんなことができた? どうやってそこに気づけた? 恐ろしい仕儀だよ。
しかしまあ、たしかにわかりづらいんだ、このままじゃ。そこは明らかな欠点だな。だからまあ、心配しなさんな。これを審査でゴリ押しするようなことはしないから」
蓮さんはたしかに自身の言葉をきっちり守った。
作品の実見に続けて審査員は別室に集まり討議し、グランプリを総意で決める。その場で蓮さんが強く何かを主張することはなかった。
結果、技術力に秀でた完成度の高い人物像が、グランプリと準グランプリに選ばれた。蓮さんの言う「唯一の彫刻家の作品」は、話頭にも上らずじまいに終わった。
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