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『ラオコオン 絵画と文学との限界について』 を読む  絵画や彫刻や文学はそれぞれ、瞬間をどう表現するか

 ラオコーン像は紀元前に造られた彫像で、1506年にローマで発掘されたもの。その存在自体は、森羅万象に関心を抱き「博物誌」を著したローマの学者プリニウスがこの像についての記述を残していることから広く知られ、発見が待望されていた。
 プリニウスいわく、この像こそあらゆる絵画・彫刻作品のなかで最も好まれているものであったとのこと。発掘が成るとセンセーションを巻き起こし、さっそく像を目にしたミケランジェロは、「芸術の奇蹟」と評して感嘆したとか。

 そんなラオコーン像を題材に、絵画や彫刻など造形美術と文学の相違を明らかにしようとしたのが、18世紀ドイツ啓蒙主義の詩人にして批評家レッシングによる『ラオコオン』。
 レッシングの着眼点は、造形美術が対象の瞬間を捉えようとするのに対し、文学は継時的であるという違いだ。付随して、視点が固定されているか動くかの違いも考慮されている。
「時間的継起は詩人の領分であり、空間は画家の領分である」
 とレッシングはいう。
 造形美術は、いちど固定したら動くことのないブツをつくるという物質的条件があるから、表現するものは「ある唯一の瞬間」に限られる。絵画などはさらに視点も、ある一点に縛られる。
 なので、表現する「この瞬間」「この視点」が、できるだけ有効ならしめるように吟味されなければいけない。

 では、どうしたら最も有効な瞬間を捉えられるか。
 ラオコーン像を例にとると、この像でラオコーンは蛇に全身絡みつかれて、苦悶の表情を見せている。このあと絶叫し痙攣する場面を迎えるであろうことは想像できるのに、なぜそうしたピークの状態を描写しなかったのか。
 レッシングいわく、ピーク状態は描写の効果を最大にするにあたっては最も不利な瞬間である。なぜなら観る側の創造力は、ピークの瞬間以上のものを思い描けないから。
 造形美術で捉えるにあたって効果的な瞬間とは、想像力に自由な活動を許すものだ。見れば見るほど思いが深まり、思いが深まるほど観照もまた深まるものでなければならない。
 ラオコーンが絶叫し痙攣しているような、ある感情の全体の流れの中での最高段階というのは、表現効果の面から考えると、最も利益の少ない瞬間ということになってしまう。この段階の上にはもう何もないといった目に極端なものを示すということは、空想の翼を縛ることになりかねない。
「ラオコオンが呻いているのなら、想像力は彼の叫び声を聞くこともできるが、もし彼が叫んでいるのだとすると、想像力はこの表象から一段高く登ることもできなければ、一段低く降りることもできない。おもしろみの少ない状態においてラオコオンを見ることになる」
 とレッシングは記すのだった。

 彫刻には必ず「ある瞬間」が捉えられていて、なぜこの瞬間を留めようとしたのだろうというのは、常に観る側の潜在的な疑問としてある。造形美もさることながら、その選択眼こそ彫刻を観るときのポイントにして楽しみだろうと再確認した。
 古来彫像のお手本とされてきたラオコーン像は、その技術的高みもさることながら、「瞬間の切り取り」の妙ゆえ、「芸術の奇蹟」たり得ているのだ。


ラオコオン 絵画と文学との限界について
レッシング著 斎藤栄治訳
岩波文庫


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