「完璧の誕生 〜レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿発見顛末〜」 4 《モナ=リザ》のための第一日 〜モデル・リザの完璧なる表情
小ぶりな肖像画を一枚仕上げるというささやかなこの仕事、自分を変える第一歩としてはもってこいである。
絵の依頼主たるフランチェスコ・デル・ジョコンドが、著名でないのも幸いだ。羽振りがいいとはいえ、一介の商人。その妻リザヴェータの肖像を描くのに、プレッシャーを感じる必要はない。
先年に公爵チェーザレ・ボルジアの軍事顧問をしていたときなぞは、雑談中の言葉遣いひとつにも気を配っていたものだ。それに比べれば、なんと気の軽やかなことか。
とにかく完成作を残すという実績づくりへ向けて、これなら邁進できそうな気がする。
いま我が視界にあるのは、窓際で静かに佇むリザヴェータのみ。
まだどこか照れくさそうにしている彼女の全体像を眼で捉え、身体の構造や質感を把握しながら手を動かしていく。すこしずつ彼女が紙上に立ち現れてくる手応えを、はっきり感じ取ることができた。
とそのとき、
「……そっくりにモノを写せるというのは、やはりそんなにうれしいものなのですか?」
急にそんな問いが降ってきて驚いた。一瞬、紙上に立ち現れつつある彼女が声を発したのかと思った。が、もちろんそうじゃない。
リザヴェータの実物のほうが、沈黙を破って話しかけてきたのだ。
「不躾に失礼をば。いえ、写すこと自体が愉しいのであればまだしも……。
そうでなければ、わたくしの『写し』なんてこの世に現す意味がありますかしら。どうしても、そう思えてしまって」
私は視線を彼女から外さぬまま、またチョークを持つ手も止めぬままで言葉を返した。
あなた様の美しいシルエットを平面上に掬い取ること自体が、絵描きとしては歓びであると。まずは型通りに。
続けて、写すことへの欲求は人の根源的なところに根差すものだという説明も加えた。
ローマの博学プリニウスが伝える、「絵画の起源」の話を披露しておいたのだ。
プリニウス曰く、ギリシアに文明の中心があったその昔のこと。コリントスの町にひとりの陶工がいた。年頃になった一人娘が夫となる男を連れてきたが、祝いの宴もせぬうちに別れが迫ってしまう。ちょうど他のポリスとの戦争が始まってしまい、夫はさっそく遠い国へ出兵せねばならなくなったのだ。嘆き悲しんだ娘は部屋でロウソクを灯し、出発前の彼を椅子へと座らせた。そうして壁に映る彼の影を、チョークでなぞる。彼が去った後も、ずっと傍に彼がいると感じられるように。
これが、描くことのはじまり。絵画すなわちモノを写すとは、愛する者をいつまでも身近に留めるための術なのである。
「だからほら今のように。フランチェスコ・デル・ジョコンド様が妻たるあなたの姿を絵に留めようとなさるのも、コリントスの恋人たちとまったく同じ心持ちなのでしょう。その間に私が『写す機械』としてお邪魔し、こうしてお手伝いさせていただいているわけですが」
いずれにせよ、素敵な話ではありませんか。こんな豪奢な新居の壁を、愛する妻の肖像画で飾ろうというのは。
筆を動かしながら何気なくそう云ったとき、リザヴェータの瞳の色が俄かに移ろった。どこか遥か遠くを見やる眼つきへ、さっと変化したのが見て取れた。
視線がブレると、むろん身体にも影響が出る。彼女はここまできれいに真正面を向いていたのに、今は右肩をわずかに引いて姿勢が歪んでしまった。どこか本心を隠すような素振りにも見える。
「私たち夫婦は、絵の起源となったギリシアの恋人たちのように完璧なものと見えますか? あらゆるものをよくよく見つめてきた画家たるあなたの眼に、私たちは本当のところどう映るのでしょう?」
遠い眼をしたまま、リザヴェータがそんなことを呟いた。
意外な問いかけに、筆を動かすこちらの手が一瞬止まった。その隙にリザヴェータが言葉を潜らせてくる。
「あの……。今回の絵を他ならぬあなたへお願いしようと言い出したの、じつはわたくしなんです。
肖像を描いてもらう機会があったら、ぜひレオナルド・ダ・ヴィンチ様へ頼むように。
以前ある方から、強くそう薦められまして」
「奇態な話ですね。ご夫妻ともども、私は初見のはず。
その、ある人とはいったい?」
「メディチ家のジュリアーノ。彼をご存知でしょう?」
「ああ、なんと。ジュリアーノ様ですか!」
ここでメディチ当主家三男ジュリアーノ・ド・メディチの名が挙がるとは。これは予想できなかった。
たしかに以前からよく知る相手である。
まだヴェロッキオ工房で技芸家修行をしている時分から、メディチ家へ使いに出る機会はしばしばあった。そんな折にはまだ幼く愛らしい「坊ちゃん」だったジュリアーノにも、よくご挨拶したものだった。当時から絵画や彫刻などに関心が高かったようで、技芸家風情がウロウロしていると向こうから寄って来たのである。
そう、三年ほど前には彼の亡命先たるヴェネツィアで顔を合わせたものだ。
隆盛を誇ったメディチ家は数年前に政争で敗れ、フィレンツェ市政の実権を失った。時代の趨勢で致し方ないことではあるが、まだ十代だったジュリアーノまでが亡命させられたのは不憫だった。
彼が流されたのは、水の都ヴェネツィアである。今は当地のリアルト橋近くの屋敷に居を構えている。彼のことはずっと気にかけていたゆえ、ヴェネツィアを旅したとき真っ先に屋敷を訪ねたのである。
して、彼の様子は? 彼女が目顔で問うてくるので、
「すっかり一人前、気持ちのいい男になっておりました。彼も二十歳を過ぎたことだし……。年の頃はあなたと似ていますね?」
リザヴェータは、同い年だと言ってはにかんだ。
そうして、自身もメディチとつながる貴族の出であること。ジュリアーノとは幼馴染みだったことを明かした。
どれほどの濃さかは量りきれねども、どうやら想いを寄せ合う仲だったよう。
それなのに運命はふたりの身をフィレンツェとヴェネツィア、遠く離れた異なる街に引き離した。以来ふたりの頼みは、使用人を介した手紙のやりとりだけになったという。
やがてリザヴェータの輿入れが決まってしまうと、さすがに便りも途絶えることとなる。
「肖像画を描くときは、ぜひレオナルドの手で」
という文言は、ジュリアーノから最後に届いた手紙に記されていたものだった。
そんな願いを最後に書いた、ジュリアーノの意図はどこにあったか? おそらくはこうだ。
私ことレオナルドが肖像を手がければ、ジュリアーノにはその絵と接する余地が生じる。機を見計らって、私のもとへ押しかけるだけでいいのだから。
絵がジョコンド家へ納品されてしまえばそれでお終いではある。が、さほど慌てる必要もない。なぜなら私はほら、ろくに絵を完成させられない「口先だけ野郎」としてとみに有名なのだ。
それにしても。未完の絵を通してでもいいからと、彼女の姿を求め続けるとは。ジュリアーノの想いの強さたるや……。
そして、リザヴェータもまた。名家へ嫁ぎ人の母となっても、人知れず彼に応答しようとする強い想いを残しているのか。
若い身空の恋心など、遠き日の徒花に過ぎぬ。そう思い込んでいたが、心得違いだったようだ。
熱く純粋なふたりの想いは、この肖像の出来映えにも甚大な作用を及ぼしつつある。なぜなら経緯をひと通り語ったあとのリザヴェータの表情が、先とはまったく違っているのである。
惹き込まれた。
それで私は、素描に没頭した。
途中でお茶が運ばれてきたようだった。リザヴェータの子を預かる乳母が、戸口から何度も様子を窺っていたという。
しかし私はそれらに一切気づかず、納得のいくまで手を止めなかった。
これは写し甲斐がある……、写すに値する……。小声でそう唱えながら、脇目もふらず描き続けた。
眼前で佇むリザヴェータの、眩しそうな眼元や口角の上がった口元。それはいつしか、リザヴェータ個人のものじゃなくなっていた。何かもっと普遍的な眼であり口であり、表情に思えた。
大切な何かを思うとき誰の顔にも共通して浮かぶ、儚くも美しい微笑み。その典型例が、彼女の顔貌を借りて現れ出てきたといった感じがした。
開け放した窓の外を、白い雲が音もなく流れていった。他に動くものといえば、チョークを握った我が手指のみ。
完璧な静けさの中で、私は確信した。
これは歴史上で描かれてきたどんな絵とも違う。真に人間を描こうと試みた、初めての絵になるだろうことを。
描く歓びに満ちた時は、私にとってはあっという間だった。集中した甲斐あって、今日一日であらかたの素描を終えることができた。筆の遅い私にしては、例のない捗り方である。
これを持ち帰り油彩画に仕上げてくる旨を述べて、覚えず長くなった滞在を切り上げることとした。
もう陽はすっかり傾いている。別れの挨拶とともに、
「この分なら意外に早く完成のご連絡を差し上げられる、やもしれません」
と告げると、夫君のフランチェスコは商売っ気の抜けた満面の笑みを見せた。妻リザヴェータはといえば、微笑みを絶やさぬまますこしだけ口をすぼめた。
夫君と肩を並べた彼女は、気づけばすっかり元のリザヴェータに戻っていた。先ほどまで彼女の相貌に現れ出ていた「人間の典型」とも言うべきあの完璧な表情は、今はもう私の素描の中にのみ存在しているのだった。
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