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第二十八夜 「楽しい終末」 池澤夏樹 〜月夜千冊〜

「人間が人間らしく生きて幸福な日々を送ることは全体としての自然、全体としての宇宙の存在意義に逆らうものではないと証明しなくてはならない」

 池澤夏樹による文明論。かつて文学者は詩や小説のみならず、あらゆる事象について語るものだったのだ。
 20世紀は核の脅威に満ちた時代だった。人類や地球に終末がやってくるとしたら、おそらく核に関連したものだろうと予想がついた。そうしてその終末の到来は、じゅうぶんにあり得るものと考えられていた。
 悲観論は、さまざまな立場から提出されていた。ならば文学者としては、できるかぎり希望を語ろうではないかと池澤は考えた。終末論のどこかに、きっと論旨の間違いがあるのだ。それを発見しなければならない。
 実際には、悲観論のほうにはあれこれと化学的な裏付けもあり、楽観論は単なる精神論に陥りがちでどこか薄っぺら。明らかに旗色が悪い。文学的想像力なども駆使して、なんとか後者に肩入れしようというのが池澤の目指したところ。その試みがはて成功したかどうか。分厚い本をすいすい読めるのはさすがのひと言なのだけど、まあ「核兵器の由来」「原発のありよう」「恐竜をはじめ種の絶滅の歴史」などの知識を整然と授けてくれるに留まり、核時代の楽観論を展開するには至らずと言えるか。いやそれもやむを得ないところで、これまでに世界中の誰もこの楽観論を説得力を持って展開できていないのだから。
 なるほどとと思ったのは、核に従事する人たちはいつの時代も、自分たちが作ったものの威力を少なめに評価するのが習い性になっているという指摘だ。1945年、米国ニュー・メキシコ州の砂漠で世界最初の核実験がおこなわれた。その際に核爆弾の威力の予想が為されたのだけど、公式予想値は五千トンというものに落ち着いたところ、最高責任者だった科学者オッペンハイマーは三百トンとずいぶん控えめに威力を算出した。実験の結果、威力は二万トンという数値だったという。責任者オッペンハイマーは大幅に予想を外した。彼はどこかで、せめて核爆弾の威力が三百トンくらいであってくれればと願っていたんじゃないか。とんでもないものを作り出してしまったことを、認める気持ちにどうしてもなれなかったのではと池澤は推察する。たしかに科学者として事の重大さがよくわかっていればこそ、実現させてしまったことを認めたくない気持ちになるのはわかる。
 20世紀を支配した核の脅威も終末論も、結論は出ぬままになってしまった。とはいえそれらの課題は消え去ったわけではなくて、ただ21世紀へとそのまま持ち越されて今に至るのだった。池澤夏樹のこの本も、実際性をすこしも損なわずいまだ読むことができる。

「楽しい週末」 池澤夏樹 文藝春秋

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