チゴイネルヴァイゼン 2 20211017
翌日はよく晴れた。
夜になって風が出てきた。書斎に座っていると、玄関の呼び鈴が繰り返し鳴っているのが、風の音に紛れながらも微かに聞こえた。
妻が取り次いで、「Kの奥さん」と告げた。
玄関へ出てみると、はたしてKの奥さんがひとり立ち尽くしている。Kは先般亡くなったのに、いつまで彼女はKの奥さんと言われ続けるのだろう。頼りない立ち姿を見ながらそんなことを思った。
彼女は家の敷居をまたがず、ドアの外側に立っている。どうぞ上がってと言ってもきかないのは、いつもと同じだった。
Kがいなくなったこの数ヶ月のうちに、こうした訪問はすでに幾度となくあった。
用向きは決まって本の引き取りだった。Kのこれこれこういう本がこちらに来ているはずなので、いただいて帰りたいという。
Kと私は学友で、それぞれ大学に職を得てからも専門領域は隣接していたゆえ、互いの蔵書の行き来はごく気軽にするのが習いだった。言われれば、うちの本棚に彼の本はいくつも紛れ込んだままに違いない。
最初の数回、彼女の指摘はすこぶる的確だった。私はもちろんKも忘れていただろうような本の名を、彼女は正しく挙げた。こちらとしてはそんなこともあった、借りっぱなしで申し訳なかったと恐縮しながら、言われた通りに探し出した本を彼女に渡した。
そのとき心を騒がせたのは、本を探すあいだ奥さんが、いくら言っても家に上がらないことだ。敷居すらまたがないから、閉め出す格好にもできず、玄関ドアを開け放しにして待っていてもらうよりほかない。
彼女が来るのは決まって風が強い日で、大気の吹き抜ける音が、開け放した玄関口から響いてくる。それでいっそう本を探す私の心は急かされた。あまり心臓にいいものじゃない。
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