見出し画像

「なつのひかり」 江國香織

 江國香織の書くものは、いつも欲望のかたまりとしてある。

 自分の欲望で、作品のすべてを埋め尽くそうとしている。
 それはどんな欲望か。自分の「好き」で世界を覆いつくしたいという願いだ。

「私」は20歳で、バイトを掛け持ちして暮らしている。双子のような兄がいて、彼には妻と娘がいる。おまけに50代の愛人までいる。
「私」のもとに「やどかりを知らないか」と隣人の男の子が訪ねてきて、そこからちょっと奇妙な夏の日々が展開していく。やどかりを探したり探さなかったりしているうちに、気づけば誕生日がやってきて、「私」はひとつ年齢を重ねていた。
「私」の日々はたいしたことなど何も起きないようでいて、ちょっとだけ不思議なことはたくさん起きている。たとえば、やどかりと意思疎通がとれてしまうとか。
「私」が訳あって非常階段で息を潜めていると、やどかりと出逢い、


「やどかりが私を見つめ、困ったような、途方に暮れたような表情で、階段に立ち往生しているのだ」

 他の場面でもまた遭遇し、「私」はやどかりに
「帰りなさい」
 と話しかける。
「帰らないととって食うわよ」
 と言い、どしんと床を踏みならす。


「やどかりは一瞬硬直し、かなしげな目で私を見つめたが、すぐに背中を向けて、そそくさとでていった。」
 
 江國香織は今作をどんな「好き」の欲望で埋め尽くそうとしたのか。夏の、暑さでぼんやりとして、すべてがどうでもよくなっていく陶酔感のようなものじゃないか。
 路上で野菜を売っているおばさんと出くわし、そろってただぼうっとするシーンで、「私」が考えることが象徴的だ。

「こうやってぼんやりしているうちに、人生は外を通りすぎてしまうような気がする。あらゆるできごとが、私とおばさんだけを流れからはずして」


「なつのひかり」 江國香織 集英社文庫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?