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五十年間失敗し続けた男 平田靫負伝  4 宝暦治水は美談か  20220115

 かように今際の際まで当人が戸惑っていたことからわかる通り、薩摩の人・平田靫負は生涯にわたり、それこそ自害するそのときに至るまで、失敗し続けた男だった。

 だが伝え残る話では、そうなっていない。薩摩と美濃の郷土史を彩る「宝暦治水」、この出来事の中心人物として語られる平田靫負は英傑だ。ゆかりの地に銅像が立ち、顕彰され続けている。

 宝暦治水とは、江戸中期におこなわれた大規模治水工事のこと。
 一七五三(宝暦三)年末、江戸幕府は薩摩藩にお触れを出す。水害を繰り返していた木曽三川の大規模治水工事を命じたのだ。

 翌春より早速工事は開始される。遠い薩摩の地から駆り出された人夫は千人に及び、用意された費用は三十万両と藩の財政を揺るがす規模だった。

 平田は事業の総奉行として現地で指揮をとった。もともと財政を預かる勘定奉行だったゆえ、費用調達についても先頭に立つ。幕府の厳しい監督下、平田以下の薩摩藩士は慣れぬ工事に精を出した。

 天下の暴れ河たる木曽三川は手強かった。増水期になるとせっかく築いた堤が、何度も決壊の憂き目に遭う。地元人夫や資材の調達はままならず、現場で疫病も発生。それでも締め付けを強める幕府の役人と薩摩藩士のいざこざも、しばしば起きた。
 結果として工期が延び、費用は嵩み、病死者や抗議の自害に及ぶ者も多数出る始末。

 宝暦五年にようやく工事は完成を見て、五月には幕府の検分も無事に終わった。難事業を成して藩士たちは順次国元へ帰っていく。
 しんがりで帰国するはずだった総奉行・平田は帰途につく前夜、自害に及んだのだった。
 立派に事を成し遂げ、しかしとるべき責任はとり、みずから死を選んだ。武士の鑑として末代まで顕彰されているわけである。
 が、しかし。果たしてこれは、そんな美談なのか。

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