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吉本隆明 「彫刻のわからなさ」 を読む  〜まったくあたらしく世界を立ち上げることの、すばらしさとむずかしさについて

 ピカソらによるキュビズムは絵画史上の大冒険だったというのが大方の世評、というか史実になっているけれど、じつはちょっと違うと思う。
 キュビズムは絵画ではないからだ。
 ではキュビズムは何だというのか? あれは彫刻だ。
「彫刻とは、具体的な素材に則した視覚的表現ではなく、想像的な表現ということになる。視覚は一方向からしか物事をとらえられないが、想像力は多面的で綜合的な代りに、細部の再現を無視するものだからだ」
 と、吉本隆明は短い文章「彫刻のわからなさ」で言う。
 人はものを見るとき、自分の立つ場所からのある視点しか得ることができない。立体物たる彫刻は、ひとつの視点から眺めただけでは平面にしか見えない。そこで人は立ち位置を変えて、像の周りをぐるぐるまわりながら複数の「見え」を得るようにする。いくつもの彫刻の見え方を頭の中にたくわえて、それらを脳内でひとつの像に綜合しようとし、「こうつながっているのかな、こうなっているかな」とあれこれ想像をめぐらせることで、ようやく彫刻は立体として知覚されるのだ。
 いくつもの視点を、ひとつの像へと統合させること。そうして頭のなかで立ち上がるのが彫刻というもの。ではさて、キュビズムの特長とはどういうものだったか。それは複数の視点を同一画面内に持ち込んで並存させたこと、いわゆる「多視点」の導入だ。これ、彫刻を観るときに私たちがいつもやっていることを、絵画の画面に持ち込んでみたものである。
 キュビズムとは、たしかに大冒険だったとはいえるけれど、「絵画史上の」ではない。彫刻的視点というものを顕わにせんとした美術史上の大冒険なのであって、新しい絵画というよりは、みずからの成り立ち方にまで言及した彫刻作品と思える。

 彫刻というのは立体物であり確固たるかたちとボリュームを持っているから、至極具体的なものというイメージがあるけれど、上のように考えるとそうじゃないことに気づく。
 脳内でそのつど想像されて立ち上がる、外界とは別個のひとつの「世界」。それが彫刻なのだ。
 「彫刻のわからなさ」で吉本隆明は言う。最初にあったのは浮彫であり、次いで立体的な彫像が生じたと。そして、両者の造型意識は根本的に異なる。
「浮彫では、世界は予め存在している。だからあとは世界の中に刻むだけである。彫像では、なによりも世界を造ることが、造形することである」
 浮彫はすでに世界に存在する壁面に線刻するなどして、もっと場を荘厳にしたいとか描出したいとの意識が強い。それがたまたま三次元のかたちをとったまでで、これは絵画の延長と言っていい。
 対して彫像は、想像を駆使して像をつくることがすなわち世界をつくることとなる。この違いは大きく、ここになんらかの断絶と大跳躍があったと窺える。
 ただ、ここでひとつの疑問が頭にもたげる。世界はすでにそこにあるのは自明である。それなのに、どうして新たに彫刻という世界をつくり出そうとしなければならないのか。彫刻のわからなさはそこだと、吉本は言う。
 彼の一応の解はこうだ。
 彫刻とは、自然から完全に人間が類別されて、孤立しているという意識を明確にすることである。人類は世界の中にありながら、ほかのすべての存在から孤立した「類」であることを自覚したので、自分たちを入れる容器としてべつに世界をつくりたかったのだと。
 なるほど彫刻家とは、そんな苛烈な闘いを繰り返している者の謂いなのだ。彫刻家はだれよりも孤独を知り、その克服のために手を動かし続けずにはいられない人ということか。
 吉本隆明の文章は、高村光太郎について考察を深める流れのなかで書かれたもの。これに照らせば、彫刻家にして詩人であった光太郎の詩のほうの仕事、たとえば人口に膾炙した『智恵子抄』で見せる、自身のパートナーである智恵子への同化してしまいたいほどの強い撞着にも得心がいく。
 彫刻を通して人が背負った深い孤独を知り、それを打破して世界とつながりたいと希求するようになった光太郎が、はたから見れば異様に思えるほど智恵子(すなわち彼のとっての世界そのもの)とのつながりと理解を求めるのは、至極当然なのだった。

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