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創作論16 物語とは関係を書くものだ

記憶の中から紡ぐ創作論の15回目。

物語、もしくは小説は何を表現しようとするものかを考える。
ひとことでいえば、個人が他者や世界と取り結ぶ「関係」を書いているんだろう。

関係を書くことを最高度に高めた例は、
夏目漱石『明暗』だ。

津田の足は次第に吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足程早く今まで居た応接間を離れるわけには行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。

「明暗」は、情景描写がすくないのが特徴。あったとしても、現場で登場人物が見ているかたちでの描写はしない。
多くの情景は、記憶のなかで呼び起こされるかたちをとる。
上に掲げたのは主人公・津田が恩人・吉川の邸宅から帰る途上のシーン。家にいるうちに室内の描写をすればいいのに、わざわざ帰り道にある津田に室内の光景を思い出させている。直接書けばいいところを、わざわざ光景を想起させるのだ。

その書き方によって、どんな効果が得られるか。
一瞬ごとに言葉によって世界が立ち上がっていくような緊迫感だ。
ふつう私たちは、この世界が当たり前のようにあらかじめ存在していて、その中で生活していると思っている。
けれどそれは、単なる思い込みに過ぎないのかもしれない。

「明暗」の世界はもともとどこにも存在しなかったが、書き手たる漱石が言葉を連ねることによって、初めて立ち上がってくるという印象が強い。人物が世界に登場し、事物と関係することで初めて、その事物が姿を表す。
それで、作品世界がひじょうに不安定になる。読者の想像力がちょっとでも途切れたら、瓦解しかねない危うさと緊張感が出る。

「明暗」がまとう独特の緊迫感・緊張感は、人と人、また人と事物、人と世界の関係性に焦点を当てているからこそ醸し出されている。
そもそも近代小説とは、個人を描くものとして成立している。
では個人って何? ひとりきりでいるのは個人ではない。人は、人と関係するがゆえに個人になる。関係性のないところに個の意識は芽生えない。

「明暗」は、関係のことだけを書いている作品だ。つまりは近代小説のど真ん中にある作品である。
そして、関係は絶えず変化する。その変化の様子を「明暗」は全編にわたりつぶさに追っている。それが結果的に、感情をこまかく追うことにもなっている。

わたしたち物語の読者は、刻々と移ろいゆく関係性の変化を追うことに、いつも没頭しているのだ。

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