「みかんのヤマ」 3魔王の囁き 20211222
わたしの内側にも、いまは思い煩うことが何もない。すてきだ。
うちの中学は二学期制で、後期の中間テストはまだ二週間以上も先のこと。
もすこし寒くなれば、体育で一五〇〇メートル走のメニューが始まるけれど、まだ先の話だからだいじょうぶ。
あとこれはプラス要素として、右斜め前の席が南川であること。野球をやっていて背の高い彼は授業中、背を猫みたいに丸めて板書を写す。わたしはその丸い背と短い頭髪、顎から首にかけての輪郭を、授業に聞き入るふりをして、いつまでも存分に眺めていられる。
すべて世はこともなし。
ちょっと前の国語の授業で、先生の朗誦した英国詩のフレーズが浮かんだ。
いやぁ、しあわせだなぁ。
死んだおじいちゃんが好きだった、若大将なる人の声音も甦ってきた。
しあわせだなぁ。という言葉を、わたしは知らず声に出したのかもしれない。
「口にしてしまったな」
いつしか微睡んでいたらしいわたしの耳奥で、そんな言葉が鳴った。地響きを起こすほど低く力感のある、魔王というのが存在するならきっとこんな音で話しかけてくるんだろうと思わせる声が、もうひとこと付け加えてきた。
「長くは続かないぞ」
そうだ、そういうことをほんとうに口にしたらどうなるか、忘れていた。
わたしはハッと気づいて、温い泥のような微睡みから抜け出なくちゃと、むやみにもがいた。
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