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「若冲さん」 22    20211112

 若冲はその日、三羽目の鶏のトサカを鮮やかな朱色で描いただけで、筆を置いた。

 若冲の筆はいつもじっくり、ゆっくりとしか進まない。丸一日を費やしても、塗りおおせるのは小指で隠れるほどの面積だったりする。

 ただしどれほどのろいとはいえ、若冲の筆は、陽のあるうち決して止まることがない。倦まず弛まず進むから、ふと気づけば画面には鶏が一羽、また一羽と増えている。

 その年の冬いっぱいをかけて、若冲は大きな絹布の画面に、総べて十三羽の鶏を描き入れていった。

 鴨川べりの寓居に差し込む陽に、ほんのすこし春の兆しが混ざっていた日の午前。若冲は十三羽目の尾っぽに数枚の羽根を描き加えたあと、はたと細筆を置いた。そのまま座り込み、懐手にしてじっと絹面を眺めやっていた。
 若冲のその姿勢は、時ひとつもふたつも続いた。

 庭掃除などをかたちばかりしながら時間を埋めていたユウは、室内を覗き込むたび微動だにしない若冲の姿を目にして訝った。
 座りっ放しなのはいつものこと。けれど常なら、筆だけはいっときの休止もなく動き続けている。それなのに今日は、働き者の右手がずっと懐の中なのだ。これはもしや……。

 ユウはそっと室へ上がり込んで、相手を驚かせないよう小さくゆっくりと声を出した。
「もし、若冲さま。ひょっとしますとこの絵、完成なさったのですか?」
 声をかけられてしばし何の反応もしなかった若冲だが、やがて潮が満ちたように潤った瞳をユウのほうへ向けて、
「ああ、うん」
 と短く応えた。

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