第二十六夜 「空が分裂する」最果タヒ
「ことばつかい」に興味津々だ。
目上の人に対するときは気をつけるべし、といった「ことばづかい」のことじゃない。
魔法の使い手を魔法つかいと呼ぶのと同じように、言葉のみごとな使い手のことを、ぼくは心の中で「ここにもいたぞ、ことばつかい!」と呼び習わしている。
ことばつかいはいろんなジャンルに棲息している。言語表現たる文学の世界にたくさんいるのは当然だけど、とりわけ、ことばつかいとはこのことだ! と毎度唸らされる詩人がひとり。
最果タヒだ。
『空が分裂する』は初期の最果タヒ作品にあたり、漫画家が描くビジュアルとのコラボレーションのかたちをとっている。
ただ、読んでいるときの感触としては、コラボ感はあまりない。最果タヒの詩は、何といっしょに並ぼうと、どこに置かれたとしても、結局独立してぽつりとそこにある。
絵と並ぶとよくわかるのだけど、最果タヒの文章はほとんど具体的な絵柄と結びつかずにできている。読んでも読んでも、受け手の頭のなかにイメージが像を結ばない。ただただ言葉だけが頭に詰め込まれていく。言葉だけで自分が満たされていく感覚が、他では味わえない快感を呼び起こすのだ。
今作にかぎったことではないが、最果タヒの詩には「死」のイメージが頻出する。
収載作でいえば、「へらない」では、
死は訪れるね むいみに生まれ変わるね
「おめでとうさようなら」では、
未来が来ることはぼくがしぬこと。
きみがしぬこと。かわいいあのこがしぬこと。
「夏襲来」だと、
大人たちは、どうして自殺をまだしていないのだろう。
などなど。死という事象に集約される虚無の感覚とそこからの逃走、みたいなことが繰り返し描かれているのかとおもう。これってじつは、社会や大人に抵抗する若者の表現として、いつの時代にもあるかたちのひとつなのかなとも。尾崎豊とか。サリンジャーとか。
ピカソが子どものように描けたらと希求したように、詩人というのは若き精神をなんとか保持し続けようともがく人の謂いなのかもしれない。
本書あとがきで、最果タヒは詩を書く理由について述べる。
「私が詩を書きはじめたのは、完全な『なんとなく』だった」
と明らかにしたうえで、創作は神聖でもないし自己顕示欲の発露だとも思わない、人にとって「創作」は当たり前のことで、人として存在するために必須の行為なんじゃないかと言う。
だれかの心中に生じるそのときどきの感情は、ただの「乱れ」でしかない。けど、
「その人のそのときにしか生じなかった乱れは、さざなみみたいにきれいだ」
と。さらには、
「誰にもわからない、わかってもらえない感情が、人の存在に唯一の意味をもたらしている。そして、だからこそ感情の結晶である作品が「わからない」と言われることは、ある種当然のことだった。私は作品において、「わからないけど」と言われること、「けど」と最後に付け加えられることを大切にしていた。」
最果タヒの作品を読むことは、他のテキストを目で追うときと明らかに何かが違うと思っていた。その違いの正体みたいなものが、このあとがきから垣間見える気がした。
「空が分裂する」 最果タヒ 新潮文庫
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