
チゴイネルヴァイゼン 5 20211020
Kの奥さんがこれ以上うちから何を取り立てたいのか判然としないが、しかるべきものを渡さないかぎり状況は変わるまい。
そこで家中を掻き回し、Kが置いていったものを洗いざらいにした。
書籍はいくらでもあった。それ以外で見つかったのは、一枚のレコードだけだった。
作曲家サラサーテが自作自奏したレコード「チゴイネルヴァイゼン」。曲自体はすでにヴァイオリン演奏の定番として知られるもの。ただこの古い盤には、吹き込みの際の手違いか演奏の途中に小さい話し声が混じっている。サラサーテ本人の声と推測され、それがあることによって名盤というか珍重される一枚となっている。
これが小さい娘の聴きたがるようなものだろうかとも思ったけれど、ともかくKより借りたものなのはたしかなので早々に渡してしまおう。そう考えて、所用のあったついでにKの家へ届けることにした。
小さい平屋にささやかな庭のついた宅だった。玄関口へ出てきたKの奥さんは夜分に見かけるよりは、幾分さっぱりとした表情だった。
庭にまわって縁側で座を占めた。小さい睡蓮鉢があって、花盛りだった。Kが死んでから急に咲きましたと奥さんは言う。
故人が丹精に育てていたので、その甲斐あっての花なのでしょうとも。
淹れてもらったお茶で一服していると、奥さんはレコード盤のほうが気になるらしく、再生機を持ち出してきてさっそく音を鳴らした。
古い音が辺りを領した。演奏は進み、手違いの箇所へ差し掛かる。サラサーテの声が、いつもよりはっきり聴こえた。
その瞬間、奥さんは「は?」と小さく短い声を上げ、家の内側へ向け娘の名を呼んだ。返事がないと知れると彼女は立ち上がり、そのままふらふら奥の部屋へ入っていった。なんとなしに、もう戻ってこない気がした。