
月夜千冊 3夜『北園克衛詩集』
徹底的なものだけが、徹底的に美しい。
と、ある小説家が言っていたけれど、まったくそのとおりだとおもう。
もしも文学を知的に攻めると決めたなら、
北園克衛くらいに徹底しないといけない。
戦前から戦後にかけて活動した北園克衛は、「前衛詩人」といった呼ばれ方をする。
北園が詩作を始めた一九二〇年代、海の向こうではアンドレ・ブルトンらを中心にシュルレアリスムという考えが巻き起こっていた。本人に聞けば「そういうわけではない」と否定したかもしれないけれど、影響は受けているにちがいない。
白い食器
花
スプウン
春の午後3時
白い
白い
赤い
(「記号説」)
といったかんじ。一見すれば、「ああシュルレアリスムを日本の詩壇に取り込んだのね」とおもえるし、それは決してまちがいじゃないはず。
ただ、シュルレアリストたちと北園は、なんだか違う。同じことをしようとしているとおもえない。
シュルレアリスムは、北園が詩作をし、詩想を深めるきっかけにはなった。出発点はたしかにそこだった。が、北園はどんどん自分の道を進む。
彼は何を目指したか。
純粋な詩、というものを模索したのだとおもう。
詩として、言葉として純粋とはどういうことか。なかなか明確に指し示せないそんな問いかけを、終生続けた。
ここでいう純粋さとはどんなものか。
ひとつには、意味に頼らないということ。彼は言葉を、オブジェ=物質として扱おうとした。
骨
その絶望
の
砂
の
把手
(「夜の要素」)
「の」というひと文字が、彼の詩のなかでは、これまで見たことのないような存在感を放つ。文章上の役割としての重要性ではなくて、オブジェとして、この「の」はとてつもなく、かっこいい。