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創作論9 作品とは距離をとり、なおかつ揺さぶること

記憶の中から紡ぐ創作論の8回目、作品をおもしろくするには「距離」をとり、そして「距離」を揺さぶるべしとの話を、『細雪』を例にとって。


小説をはじめとする作品は、フィクションとナレーションからできている。
フィクションすなわち話の筋とか物語の型は、人間が考え出せるものなど高が知れている。作品をおもしろくするには、ナレーションがキモであるとはこれまでにも述べたところ。
これぞナレーションの勝利! と叫びたくなる例を挙げるなら、谷崎潤一郎『細雪』だ。
四姉妹の身の上にふりかかる、さほどスケールの大きくないあれこれを追いかけるだけで、長大な小説を構成していて、これがいつまでも飽かず読んでいられる。
どんなしくみになっているか見てみたい。

まず、『細雪』のナレーションには明快な特徴がある。
描写と説明が順繰りに出てきて、リズムをつくっているところだ。
「1」で映画の一場面のようなシーンを描き、「2」では姉妹たちについての状況・状態を説明する。「3」はシーンで、「4」が説明、と延々続く。
結果、読む側には絶えず新しいシーンがもたらされる楽しさが与えられるし、同時に説明もつどちゃんとされているから、そのシーンが「はてどんな状況になっているのだっけ」という混乱もなくて済む。長い文章をスイスイ読み進められる。リズムは大事だ。

次いで、語りの質がいいのも、大きな特長。
どの場面でも説明でも、語り口が自由でのびのびとして、息苦しくない。語り手と語られるものの距離感や、どこに焦点を置いて語るかが、自在に微細に動き続けるのである。
たとえば、姉妹が見合いのために列車で移動していくシーン。

雪子も、時節柄と云い、乗合客の眼を惹くような身なりをするのは厭だったので、衣装は別に鞄に詰めて持って行きたかったのであるが、何分にも打ち合わせがよく出来ていないので、ひょっとすると、向うへ着くともうその人が待っていると云うようなことがあるかも知れない、旁々支度をして行った方がよいであろうと云うことになって、これはひとしお着附に念が入っていた。

さほど長くない叙述内に、長い出来事があったことを感じさせる。「厭だったので」のところでは由紀子の内面に焦点が入り込む。が、「打ち合わせがよく出来ていないので」は客観的な事実。本人以外の人々がやりとりした形跡が窺える。最後の「これはひとしお着附に念が入っていた」は語り手の視点。ここでカメラがぐいと引いている。

『細雪』では焦点を合わせる人物がコロコロと入れ替わるけれど、さほど混乱なく読めるのは、上の例にもあるように切り替え時にスッとカメラを引いて、語り手がナレーションをひきとり、また誰か別の人物へと焦点を合わせていくからだ。カメラワークでいうところの「寄り」と「引き」をうまく駆使しているのである。

さらに『細雪』のナレーションのいいところを挙げると、説明すらもおもしろいところだ。
話を進めるうえではどうしても説明をしなくてはいけないことがらが出てくる。そこで単に情報を伝えるだけでは興が削がれる。そこもせっかくならばおもしろくしたい。そこで『細雪』がしていることは、言い回しや語彙を豊富に使うのもさることながら、時間をうまく操っている。ひと連なりの説明のなかに、いろんな時間を含ませるのである。
たとえば、姉妹がそろって花見に行く著名なシーン。

 明くる日の朝は、先ず広沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子、と云う順に列んだ姿を、遍照寺山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。この桜には一つの思い出があると云うのは、或る年の春、この池のほとりへ来た時に、写真機を持った一人の見知らぬ紳士が、是非あなた方を撮らして下さいと懇望するままに、二三枚撮って貰ったところ、紳士は慇懃に礼を述べて、もしよく映っておりましたらお送りいたしますからと、所番地を控えて別れたが、旬日の後、約束を違えず送って来てくれた中に素晴らしいのが一枚あった。それはこの桜の樹の下に、幸子と悦子が彳みながら池の面に見入っている後姿を、さざ波立った水を背景に撮ったもので、何気なく眺めている母子の恍惚とした様子、悦子の友禅の袂の模様に散りかかる花の風情までが、逝く春を詠嘆する心持を工まずに現していた。以来彼女たちは、花時になるときっとこの池のほとりへ来、この桜の樹の下に立って水の動きをみつめることを忘れず、かつその姿を写真に撮ることを怠らないのであったが、幸子は又、池に沿うた道端の垣根の中に見事な椿の樹があって毎年真紅の花をつけることを覚えていて、必ずその垣根のもとへも立ち寄るのであった。

これだけ息の長い文章をすんなり読ませるには、よほど書かれる情報がよく整理されていなければできない。一つひとつの語句のチョイスもエレガントだ。
そして、この叙述のなかにいくつもの時間が流れ込んでいるのがすごい。時間のレイヤーが幾重にもなっている。何年か前に紳士に写真を撮ってもらったこと、以来毎年ここに来ていること、椿の樹がいつも花をつけていること、そしてもちろん「明くる日の朝」という現在の時間、などなど。
描写と説明が入り混ざり、時間も輻輳的となり、なんて流麗かつ濃密で豊かな文章だろうと思う。唐突だけれど現代美術の大御所ゲルハルト・リヒターの絵画の表面を眺めるときと同じような豊穣さを感じる。

これはひとえに、書き手が登場人物とのあいだにしかるべき距離をとっているからこそできる業だ。つねに距離をとってその遠近を調整し続けながら、谷崎潤一郎は文章を、そして作品を構築している。
作品世界に没頭しつつも、この客観性というか批評性と呼んでもいい態度を保ち続けることが、小説をおもしろくする原動力になっているとみた。

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