創作論8 語り手と作中人物の「距離感」は重要だ
記憶の中から掘り起こす創作論の7回目。語り手と作中人物の「距離感」を測るのは思いのほか大事ということを、志賀直哉を例にとって。
長らく日本で「小説の神様」と称えられてきた作家といえば、志賀直哉。
志賀直哉作品の多くは自分の周りのことをつらつらと書き連ねる「私小説」であり、リアルに現実世界を描き出す自然主義的作品であるとされてきた。
私小説のフィクション面での特徴は、作家の身辺雑記ネタばかりであること。ではナレーション面の特徴はといえば、語り手と主人公が徹底して密着していることだ。
その特徴が表出すると、どんなテキストになるか。
日常でそんな突飛なことは起こらないから、主人公は大した行動をしない。たいていは目の前のことにただ何となく流されていく。
ので、私小説の主人公は、ほとんどものを見ない。いや、何かはそりゃ見ているが、しかと見るのではなくて何となく目に映るというだけ。
小説の記述としては、本人の目に映った世界を細密に描いていくというかたちとなる。ので、世界を細やかに描き出すことにかけては、ある種の技術的達成がある。その筆の冴えを楽しむというのが、私小説のいい読み方となるだろう。
短編ならばそれでもいい。磨き上げたひと連なりの文章を読んだな、という感慨と満足感が得られる。それで志賀直哉も、幾多の短編によって「小説の神様」の名をほしいままにしたのだった。
が、長編になるとキツい。語り手以外の人物が登場して、関係を築こうとすると、破綻してしまう。何しろ語り手=主人公はみずから行動せず瞳に事象をただ映し続けるだけの存在なので、他者とまともに関係しようとしない。人間関係の変化や成長を描けないのだ。
志賀直哉の代表的長編といえば『暗夜行路』。三人称で物語が綴られるのだけれど、語り手と主人公が徹底して密着しているのは志賀の短編作品と変わらない。
その結果、どういうことが起こるか。作品内の眺めがちょっと窮屈に感じられ、世界の広がりやユーモアがない印象となる。
この作品にかぎらず、ユーモアとは距離感の問題。ものごとがぴたり密着しているところにユーモアは生まれないのだ。
必死になって急いでいるときに転んでも、自分では笑えやしない。でもその姿を、引いた視点から第三者が見ていたら、思わず笑ってしまうことは多いはず。
小説内では、語り手が主人公から離れることで、ようやく主人公を笑うことができる。一種の余裕が生まれるというか。
語り手と主人公の距離は、近づけたり離したりと揺り動かしたほうが、シリアスとユーモアを行き来できて語りが豊かになる。私小説はその「揺れ」を使えないから、短編ならばともかく長編だとどうしても単調さを免れ得ない。
距離が伸び縮みしないせいだろう、「暗夜行路」の主人公・時任謙作はずいぶん短絡的・直情的に見えてしまう。感情表現が好き・嫌いばかりだし、何かを目にしたときも「美しいと思った」などとは言うもののその場かぎり。彼を貫く芯のごときものが、どうにも捉えづらい。
おそらく彼は作品内で、個人として立ち現れていないのだ。
ヨーロッパ近代が生んだ概念としての「個人」は、独立して立ち、他者と関係を持つ存在である。
ヨーロッパ近代が生んだ小説というジャンルは、個人の営みや葛藤を描くものとして成立した。
だから小説を書くのなら、個人をどう扱うかは避けて通れない問題となる。
夏目漱石はヨーロッパ近代型「個人」が日本でも成り立ち得るかを考え抜いて、それが本当に日本にも必要なのかどうかも含めて検討した。その答えが出せぬまま没してしまったように思えるけれど、漱石の必死のもがきはいまも彼の著述を通して共有できる。
志賀直哉は「個人の立ち方」に力点を置かなかった。それはそれでひとつの在り方だろうけれど、その作物を小説として眺めたときには、中心にポッカリ穴が開いた感となるのは否めない。ある種の日本語のお手本としてはアリだし美しいと思うが、「小説の神様」であるかどうかは、はてなマークがつくんじゃないか。
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