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第三夜 『思い出トランプ』  向田邦子


 心理をたどるのが小説の仕事。

  だとすれば、向田邦子の短編群は、小説の本分にきちんと則っている。 

 鮮やかに、心理だけを見つめている。 

「かわうそ」という一編では、出だしからして、

 「指先から煙草が落ちたのは、月曜の夕方だった。」 

 とくる。ひとりの男の身体的な変化、そして呆然と頭の中を考えだけ巡っている感じが、一行でみごとに描き出される。

  登場人物が活動し何かを思うから、初めて作品世界が立ち現れてくるのだという感触もある。何かが書かれないかぎり、その世界は存在しないのだという、当たり前のことを思い知らされる。

 「大根の月」に出てくる夫は、これまでの人生で昼間の月を見たことがない人物として描写される。

  そのエピソードだけで、男の支配的心理が明らかになってしまう。あくせく下ばかり見て暮らしてきた小人物ということが、痛々しいまでに伝わってくるのだ。

  どの短編も外形的には、当時の平凡な家庭を舞台にしたささやかな小説、ということになるかもしれない。

  が、心理をとことん微細に追う向田邦子にとって、道具立ては平凡な家庭で充分。いやできるだけふつうで平坦なほうが、心理の起伏、綾、ぶつかり合いを際立たせることができて好都合と思っているんだろう。

  心理や感情に着目していれば、いつだって波瀾万丈で味わい深い。小説はもちろん、実生活でもきっと同じことが言える。

  作品を通してそんなことを教えてくれるからなのだろう、向田邦子にいつも「人生の達人」感が強く漂うのは。


 『思い出トランプ』 

向田邦子 

新潮文庫  

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