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冒頭のレッスン キャラ出し・状況出し  「蒼い炎」

 ひろしは決まって零時過ぎにトイレへ立つ。いつも濃いコーヒーをマグカップになみなみ注いで、自分の部屋に持ち込むせいだ。
「すぐ疲れるでいかんわ最近は」とばかり言い合っている両親は、むろんとっくに寝室へ引き下がっている。ひろしの部屋以外に、灯りも音もない。
 暗い廊下を渡って用を済ませ、洗面所で手を洗う。タオルを使い終えるところで初めてひろしは顔を上げ、洗面台の鏡に自分の姿が映るのを見た。
 夏休みに入る頃から、かれこれ四ヶ月。根を詰め受験勉強をし続けて寝不足なので、顔はすこし浮腫んでいる。それでも十八歳の若い肌に、疲れの色が浮き出たりはしない。
 ひろしは、おもむろに鏡を睨みつける。そうして小声だが目の前の空気を切り裂くような勢いで、ひと息に言葉を吐いた。
 ナメんなよっ。フザケんなよっ。見てろよっ。
 そのまましばらく、ひろしは鏡と対峙したままだった。鏡の向こうの世界が何らか反応してくれるのを待つみたいに。
 もちろん、何が起こるわけもない。家は寝静まったままだし、家の建つ山あいのニュータウン全体も物音ひとつ立てない。
 醒めた表情に戻ったひろしは、洗面所の電気を消して部屋へ帰っていく。寝落ちしそうになる午前二時あたりまで、Z会の世界史問題集をやらなくては。
 フランス革命の細かい進展をマスターするための大問をひとつ、こなしておきたい。ジャコバン派、ジロンド派、マラーにダントン……。固有名はかなり暗記したけれど、それらのつながりがまだよくわかっていない。ひろしはしばし、かつて生きていたフランス人たちの行動に脈絡をつけていく作業に没頭した。
 やがて、睡魔がひろしを急襲した。
 もういかん、寝ないといかんわ。
 勉強机からうんと離して置かれた小さいベッドに、どうと倒れ込む。
 枕元のスタンドライトだけ灯して、薄い新潮文庫を手に取り開いた。寝る前の自分に許した、ささやかな自由時間だ。
 ひろしは、読みさしのトルストイ『幼年時代』に目を通す。
 特にロシア文学が好きということでもない、なんだっていいのだ。文字を追って、そこに物語が流れているという手触りさえ感じとれたなら。
 ひろしの自由時間は短い。ほんの数行読んだだけで、文字列から意味を汲み取れなくなった。意識が混濁していく。眠りについた。
 深夜のこの習慣が将来に大きな影響を及ぼすこととなるのを、まだひろし本人は知らない。
 習慣というのは、受験勉強のことじゃない。眠る間際にほんの数行分だけでも、物語の世界に入ろうとしていたことのほうである。

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