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「若冲さん」 30   20211120

「あいわかった。お前さんの気が済むなら全部、置いていけばいい。
 軸の二十や三十をしまっておく余所くらい、この寺にはいくらもある」
 大典禅師は請け合った。
 二十年かけ描いた画すべてを奉納したいとの若冲の願いは、ここに聞き入れられた。

 型通りの礼を述べ、若冲はあっさり室から辞した。
 その背中を眼の端に捉えながら、大典は思った。
 立派な居士になった、描くことが丸ごと修行になっておったかな、と。

 寺を出た若冲は、ひとり帰途を黙々歩いた。
 広大な御所の脇を通り、実家たる桝源のある錦通りを経て、鴨川沿いの寓居へ。
 若冲の胸中を去来していたのは、たったひとつの言葉だった。
「あとは余生だ」
 それ以外には、何の考えも感慨も湧かない。
 いまの若冲には、明日も明後日も一年後も、何の計画もない。
 求めるものは一切なく、心の水面は鏡のごとく澄み渡った。

 が、凪の心境はそう長く続かなかった。
 さざなみが立ち始めたのは、若冲の足が錦通りに差し掛かる頃合いだった。
 景気は悪くないらしく、京の食を支える市場は変わらぬ賑わいを見せている。
 ただそこにほんのすこし、影が差していることに若冲は気づいた。

 辻や店奥で人が寄り合い、声を潜め何やら話しているのがやたら眼に留まるのだ。
 急ぎの用向きを抱えたらしい若衆が背後から駆けてきて、若冲を追い越していった。
 不穏を感じて歩を止めていた若冲に、遠くから声が掛かった。
「旦那様!」

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