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「この一枚を観に」 テート・ブリテン ウィリアム・ターナー『ノラム城、日の出』


人はときに、ただひとりの大切な相手と会うためだけに、地球の裏側まで出かけたりもするでしょう?
同じように、たったこの一枚を観るために、どこへでも行く。そういう者に自分はなりたい。

今回は、テート・ブリテンへ。ウィリアム・ターナー『ノラム城、日の出』を観に。

国民的画家の作品、ここに眠る

英国絵画の精髄が、全館にわたってぎっしり詰まっている。それがテイト・ブリテンです。となると、どうしても外せない画家がひとりいます。英国が世界に誇る絵画の革新者。そう、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーです。
19世紀前半に活躍したターナーは、風景画の巨匠として知られる存在です。大胆で確かな画面の構成力をベースに、類い稀な色彩感覚を発揮し、大気の揺らぎや湿り気までをそのまま画面に定着させようと創意工夫を続けました。
後に絵画史に登場する印象派や抽象画の先駆と目されることも多く、英国では存命中から現在にいたるまで、国民画家としての地位を揺るぎないものにしています。英国文学の顔といえば、大半の人がシェイクスピアの名を思い浮かべることでしょう。同じように英国絵画の世界においては、ターナーこそがその代表格なのです。

テイト・ブリテンの正面入口から右手に進むと、1987年に建てられたクロア・ギャラリーがあります。ここはなんと、ターナー作品のためだけに設けられたスペース。これはターナーがいかに特別な存在であるかの証ですし、また、同館がそれだけターナー作品をまとめて収蔵しているということでもあります。
実際のところ、テイト・ブリテンが有するターナー作品は油彩が約300点、素描や水彩は2万点を超えます。晩年のターナーは、自身の作品が散逸しないよう、手元にある作品すべてを国家に寄贈すると遺言したのです。それらが受け継がれて、現在はここに収まっているというわけです。

単なる絵具のかたまりにも見えるけれど……

 膨大なターナー・コレクションの中の一枚としてここに挙げたのは、1835~40年ごろに描かれた『ノラム城、日の出』です。
ノラム城とはイングランド北部、ノーザン・バーランド地方にある古城のこと。風景画家として国内外をよく旅していたターナーは、22歳のとき初めてこの地を訪ね、水彩画を描き残しています。その後も何度も足を運び、この油彩作品を描いたのはすでに60歳を過ぎてからのことでした。

作品はタイトルの通り、朝陽が上る時間帯を捉えたものです。朝もやがかかっているようで、太陽は黄色にぼんやりと光るばかり。丸い形には見えません。逆光に照らされて遠くに浮かび上がる城も、ほとんど輪郭を成していません。手前の水辺には何やら動物らしきものが佇んでいますが、これもはっきりとした像を結ばないまま。すべてが霞んでいて、どんな情景かギリギリ識別できるかどうかという状態。見ようによっては、パレットに無雑作に置かれた絵具のかたまりと思ってしまうかもしれません。
 それでもこれはやはり、じっと眺めるに堪える平面です。青と黄、ほとんど2色だけのグラデーションは、なんと優しく穏やかなものでしょう。色合いが眼にすんなりと馴染み、溶け込んでいくかのようです。色そのものの調子や混ざり具合、画面全体における配分の妙を存分に楽しむことができるはずです。

タイトルに記されている城と太陽は、はっきりとした形を成していませんが、そんなことは大した問題ではないという気がしてきます。絵の主役は、城を望む水辺の空気感であり、その場の雰囲気そのものなのです。朝靄に煙る画面が、清澄な朝の空気を観る側のもとへ運んできてれるではありませんか。

画面のなかですべてが溶け合う

 太陽は丸く描かねばならない、城はある一定のボリューム感をもって表現せねばならない。従来の絵画の常識では、そうした約束事をまずは守るのが当然でした。そのうえで、各人が個性を発揮すればいいとした。
 ところがターナーは、あっさりと根本的な約束事を覆してしまいます。それよりも、自分が体感したものを素直に描くことを重んじた。それで画面には、ターナーの偽らざる思いがあふれることになりました。だからこそ、現在の私たちが目にしても、すぐに感応できる何かがそこに定着しているのでしょう。
 ターナーがこうした画風に達したのは、彼が50代を過ぎてからのこと。イギリス画壇の重鎮とし広く名を知られていたのに、その地位と名誉を半ば捨て去るように絵画の冒険へ旅立っていきました。

 もともとターナーは、王立アカデミーの一員として、当時の正統的な美術を守り育む立場にいました。ロンドン中心部のコヴェント・ガーデンで生まれ育った彼は、10代でアカデミーが運営する美術学校へ入学。20歳になるころには、水彩で名所絵を描く売れっ子画家となります。26歳でアカデミーの正会員となり、その後はアカデミーの要職を歴任します。
 風景画の第一人者として、そのままアカデミーに君臨していることは簡単でした。でも彼は、晩年にさしかかろうという年齢になってから、画面の中のすべてが溶け合っていくような作風へと突き進んでいくことになります。この転換について、アカデミー周辺からいい評判は聞こえてきませんでした。


徹底した「見る人」

 若いころから英国内の各地、またヨーロッパ大陸へもしばしばスケッチ旅行へ出かけ、眼前の風景を丹念に見ることを繰り返してきたのがターナーです。いつしか彼の中では、見たまま感じたままの風景を表すことこそが、自身の画業の本分だという気持ちが固まっていったのでしょう。徹底して「見る人」であろうとした彼が、誰よりも早く到達した境地がここにあったのです。
 印象派の中心人物たるモネは、ターナーの没後20年ほど経ってから、一時ロンドンに住んだことがあります。そのときにどうやら、『ノラム城、日の出』をはじめターナーの絵画に触れて感銘を受けたようです。自身の印象を信じて描けばいいのだ、そんな姿勢をターナーから学び、印象派という絵画の革新を推し進める「よすが」としたのではないでしょうか。

 確固としたモノの形を描かない晩年の画業があまり理解されなかったゆえか、ターナーの志を後世へつなげようという直接の後継者はいませんでした。それでも美術の歴史は、ターナーを放ってはおきません。印象派や、色面だけで表現する20世紀の抽象絵画は、ターナーの発見を礎にして発展していきます。
「見ること」を突き詰めた英国のひとりの頑固者が、現在に至る絵画の流れを決定づけたのだといえましょう。


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