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五十年間失敗し続けた男 平田靫負伝  5 強藩を揺るがす心の弱さ 20220116

 宝暦治水をひとつの事象と見た場合、幕府側からすれば「天下の暴れ河」平定の足掛かりができて、満足いく結果を得たと言える。

 実務はすべて薩摩藩に丸投げだから、懐ひとつ痛まないのだし。

 では薩摩藩から見た、宝暦治水の意味は?
 そもそも縁もゆかりもない地の治水に借り出されたのは、幕府の一方的な命による。外様・薩摩の力を削ぐ方策だったのは明らか。
 本来、薩摩藩がそんな無理難題を引き受ける大義や理は欠片もない。断固拒否すべき事案だったかもしれない。

 折れて工事を請け負った結果、かかった費用は四十万両に上った。藩が即刻立ち行かなくなるに足る額だ。
 加えて犠牲者の数も膨大である。薩摩藩の被害は、考えられ得るかぎりの最大値に達した。

 たしかにこれは難しい事業だった。が、薩摩の自滅という側面も確実にある。指揮者の度重なる判断ミスが傷口を広げ、かくも悲惨な結果になったと見るのが妥当。そこは総奉行・平田靫負も、じゅうぶんに自覚している通り。

 問題は、だ。誇り高き薩摩藩を揺るがしたこの大失態が、たまたま責任ある立場に就いたひとりの人物の、心の弱さに起因しているように見えることである。
 これほどの大事が、たったひとりの頑なさ、引け目、僻み、虚栄、つまりは弱さ。そうしたところに端を発して引き起こされてしまうとは驚きだし、そんなことがあり得るんだろうか。
 これは失敗の研究として詳らかにしたいところ。究明したほうが平田靫負当人もきっと浮かばれる。

 平田の環境との折り合いの悪さや心の歪みは彼の幼少期から見られるが、失敗が表面化しおおごとになっていくのは、やはり宝暦治水以降のこと。
 宝暦治水の事の次第を、始まりから見ていくのがよさそうだ。

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