「完璧の誕生 〜レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿発見顛末〜」 5 《モナ=リザ》のための第二日 〜 ラファエロに一目惚れした日
今際の際まで手元に置き、筆を入れ続けることとなった作品。我が画業の集大成。それが《モナ=リザ》である。
小さい肖像画に過ぎぬが、ここに私の思考と技芸のすべてが入っている。
そうまでして表したかったもの、それは生命! この世の神秘! 画中に生命を宿らせ、我が個人の命が尽きようとも絵は生き続け、受け継がれていってほしい。それがいま胸中に去来する唯一の願いである。
この画をここまで仕上げるには、どうしても必要な「時」があった。正味三日間の出来事を順に記したく、その第一日はモデル・リザヴェータとの邂逅であったとここまでに述べた。
絵画芸術にどうしても必要な外形、それは完璧なるかたちでリザヴェータがもたらしてくれたのだ。
次なる問題は、その外形にどう魂を入れるのかである。
絵とは本当のところ、平らな板と顔料でできているに過ぎない。どう取り繕ってもその事実は変わらぬ。そこに想いを込めるとは、いかにすれば可能か? 決まり切った方法などむろんない。せいぜい描く側が、できるかぎりの切実な真情を画面にぶつけるより他にない。
《モナ=リザ》の場合はどうだったのか。私はできるだけ真情に誠実であろうと努めた。具体的には、恋情を込めんとした。
その恋情が芽生え、一気に育ち花開いた「時」を第二日の出来事として以下に開陳しよう。
それは第一日の翌年、一五〇四年のことである。
恋情というからには、対象となる人物がいるわけだ。その名を先に明かしておけば、ラファエッロ・サンティである。彼も技芸家として一家を成しておるゆえ、口外したことはこれまでにない。
当時の彼は、まだこれから世に出る若者だった。私は彼の隠れた才能に惚れ込んだ云々、といったややこしい話ではない。初見でただ彼に見惚れてしまったのだ。いわゆる一目惚れだが、そんなことは初めてだったし以降も似た経験はないのである。
当時の私は、フィレンツェのとある寺院の一角を借りてアトリエとしていた。シニョリーア宮殿の五百人広間に壁画制作をする命を受けて、その準備に没頭していたのだ。
ある暑い日のこと。ふらりやって来た若き見学者が、私の気持ちを不意に大きく揺さぶったのである……。
「どうです、お気に召した素描は見つかりましたかな?」
昼食を済ませて作業場へ戻ると、卓の上に散らばった紙を無心に漁る背中があったので声をかけた。
私の仕事先には、あちこちからの紹介もあって訪問者が絶えない。
自分としてもできるかぎり人当たり柔らかでいようとは、常に心がけていること。ゆえに立場や老若を問わず人はよく寄ってくるほうなのだ、すくなくとも表面的には。
この背中もそのひとりだろう。たまたま人が不在のタイミングにやって来て、卓上へ投げ置いてあった下絵についつい見入っていたというところか。
もちろん厚かましいなどとは思わぬ。むしろ熱心で好ましい。どころかこの客人は、かなり見どころがある。というのも卓上に投げ置いた幾枚もの断片的な素描を、私の頭の中の完成像とほぼ同じように並べ替えて眺めている。
そう今回の大作でポイントとなるのは、構想の壮大さと画面構成の妙。素描群だけを見てそこにすぐ気づくとは。はて、いったい何者か。
大いに好奇心が湧いたゆえ、背中へ軽口っぽく声をかけたのだ。
卓上に置いたすらりとした色白の両手を止めて、向き直った顔は意想外に若い。これで二十歳を過ぎているかどうか。
若いだけではない。なんとも美しい……。振り向いた拍子に揺れる黄金色の巻き毛。その奥に瑞々しさを湛えた大きな瞳が埋まっている。すっと一筆描きしたような薄い唇の両端はキュッと上向きで、優雅さを醸している。
勝手に素描を漁っていたことを悪びれもせず、こちらを見つめ返す態度もまた堂に入っている。
「これは失礼、勝手なふるまいお許しのほど。わたくしはラファエッロ・サンティ。レオナルド様の元同僚たるペルジーノの弟子にございます。お仕事場見学のご許可、先だって工房のほうに頂戴いたしまして、いきなりながら本日参らせていただいた次第」
すらすらと口から発する声音も耳に快い。直接指で探られるようなくすぐったさを感じて、言葉の意味のほうがなかなか頭に入ってこない。
これが一目惚れというものだろう。
ラファエッロと名乗る青年を見ているだけで、視界の明るくなった気がする。天使の通り道のような光が天空から降ってきて、ラファエッロだけを照らしているかのよう。
奥手を自認する我が身にも、好みくらいはある。惹かれるのはたいてい若くて才気に溢れ、つるりとした童顔。つまりは、目の前にいるラファエッロそのもの。
顔が知らず上気していただろう。声も上ずっていたかもしれぬ。
「そうですかペルジーノの弟子! それは大歓迎。ペルジーノは変わらぬ様子かな?」
師の健在を伝えるラファエッロの、なんとも人懐っこい声。それに、この快活で生き生きとして知的な表情がどうしようもなく人を惹きつけるのだ。
ああ、突如として現れたラファエッロ・サンティ。あなたは私にないすべてを持つ者だ。ひとことでも交わせば伝わってくる、言葉の嘘のなさ。顔面には曇りひとつない。それゆえか、左右の均衡がこれほど見事に取れた顔と四肢の肉付きを他に知らない。
比べるべくもないのだが、対して私など……。生まれ育ちともに卑しく、金銭的な苦労も重ねてきた身。そんな人間の言葉や表情には、いつもどこかに打算や企みが浮かび上がる。そんなのは見る人が見ればすぐ分かり、隠し通せるものではないのだ。
たしかに長い年月に及ぶ克己により、私とて一応の地位は築いたやもしれぬ。しかしたまに評判を耳にするたび、心の内がひやりとする。世間を丸ごと騙しているような気がしてしまう。
それでたまに寝覚めもひじょうに悪いのだ。ある朝起きるとすべてが明るみになって蔑視に囲まれている、そんな夢を見て嫌な汗をかくこともしばしばである。
思いを巡らせていると勝手に気持ちが暗くなってしまった。悟られぬよう、できるかぎり温かみある笑みをつくって言葉をかけた。
「この下絵から、作品の構想があらかた読み取れたのですか? だとしたらお見事ですよ。我が同窓であなたの師、ペルジーノをすでに凌駕しているとしても過言ではなさそうだ」
片側の眼だけ器用に見開いて、驚きと喜びと謙遜を絶妙に混ぜ合わせながらラファエッロは応えた。
「とうてい意図を読み取るようなことなどできませぬが……。ただこの大作が完成したら、さぞ壮観でしょうね! あの五百人広場に馬のいななきと人の咆哮が響き渡ることとなりますよ。ああこれは見ものです、早く観たい!」
と、黒眼を輝かせる。なるほどやはり全体像が見えている。この青年、ただ見目麗しいだけではない。
ラファエロが先ほどひとり机上で見ていたのは、たしかに五百人広間のために構想している壁画の下絵である。巨大で入り組んだ群像作品ゆえ、下絵は部分ごとバラバラに用意してある。その紙片の束が、無雑作に机上に放り投げてあっただけだ。それらを一枚たりとも違えずさっと正しく並べ、眺め入っていたのがラファエッロである。そんな芸当はよほどたしかな「眼」を持っていなければできない。
美しさと知性を兼ね備えた、完璧なる青年が舞い降りてきたわけだ。これではまるで天使ではないか!
たしかな眼に敬意を表する意を込め、少々芝居めいた丁寧さで重ねて訊いてみた。
「私の壁画の計画については、すでにどこかで詳しく聞き及んでいるのです?」
「はい。フィレンツェの中枢シニョリーア宮殿内、麗麗たる五百人広間の壁一面に絵画制作の使命を帯びていらっしゃるのは市民の広く知るところ。なんでもフィレンツェ政府直々の依頼ですとか。
カルトンすなわち下絵を描くため、ここサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の教皇の間を使っておられるのも街の噂になっております。だれより早くカルトンをひと目、拝見したい……。その一念で、本日馳せ参じた次第です」
張りのある美声でそう持ち上げられては、むろん悪い気などしない。あくまでも年長の紳士然と対応したかったがそうもいかず、相好を崩しながら応える羽目となった。
「それでは私の選んだ主題についても、もうご存知かな? アンギアーリの戦いという、少々昔の題材をとってしまった。若い人にはあまりピンとこないかもしれませんな……」