見出し画像

「セールスマンの死」1(改)   20210929

 私は泣いたことがない。赤ん坊のころはいざ知らず、すくなくとも記憶のあるかぎりは、ずっと。

 それが引け目だった。露見せぬよう細心の注意を払ってきた。オーディションの場なんかでポロリ話してはおしまいと、つねに自分を戒めている。
 だってバレたら、商売上がったりじゃないか。同業者ならまだしも、プロデューサーや演出家ら制作サイドに、
「あいつ不感症らしいよ、実生活じゃ」
 などと陰口されては、役者としての評価にかかわる。

 そう我々役者とは、自分の身体を使い感情を表すのが仕事である。感情についての経験、知見、コントロール法を豊富に有するのは当然。演じているあいだくらいは観客に、「そうなんだろうな」と思わせられなくては話にならぬ。細々と活動してきたに過ぎぬ私のような舞台役者にだって、それくらいの矜持はある。

 涙を流すほどの激しい感情の揺れ。その体験が、喉から手が出るほど欲しい。そう想い続けてきた私に、大きなチャンスが回ってきたのはちょうど一年前のことだった。それは肉親の死というかたちをとってやってきた。

 あれは梅雨の季節の水曜日、帰宅ラッシュの時間だった。東京から千葉へ戻る勤め人を詰め込んで、総武快速線が耳障りな高音を響かせながら江戸川にかかる鉄橋を渡っていく。

 視界に入る乗客全員が肩をすぼめスマホ画面に没入している。私はそれを何の感興も湧かぬまま、ただ眺めていた。自分の降車駅はまだ遠い。

 ふいに胸元が激しく震えた。慌ててジャケットの内隠しに手をかける。こんな夜分にスマホが着信するなんて、よほどの緊急か。一瞬惑ったが、すぐ目星はついた。
 とはいえ身動きもままならぬ今は応答しづらい。ブブブ、ブブ……としつこい板片を、ジャケットの上から手で押さえつけてやり過ごす。足裏で感じる車両の揺れと小刻みな胸元の振動が混ざって気分が悪くなる。

 ようやく着信が途絶えて息をついた。発信先の確認をする気にもなれない。無性に新鮮な空気を吸いたかった。せめてもと車窓に目をやる。外は月も出ぬ黒闇で何も見えない。窓には反射で車内の人群れがくっきり映し出されるばかりだった。

 ひとり顔を上げている人物と眼が合った。むろん自分だが、あまりに表情が虚ろで驚いた。夜分で無精髭も青々と目立つ。
 ふいに、この生気のない顔には見覚えがあると思った。
 つい先日これとよく似た、ただしもっと極限まで痩せ細った顔と私は対面した。

 そうあれは、死相の浮き出た父の顔だった。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?