文学の肖像 倉数茂『名もなき王国』より なぜ人は物語に憑かれるの
これは物語という病に憑かれた人間たちの物語
ひとつの大きな物語の中に、いくつもの小さい物語が織り込まれて異彩を放つ小説が、倉数茂の『名もなき王国』。物語ることと生きることの関係について、じっくり考えた作品だ。
主人公は、過去にみっつの作品を発表するも、いまだ無名の小説家。あるとき出会った澤田瞬なる人物と交流するうち、澤田の伯母が幻想小説家・沢渡晶だったと判明する。瞬の半生と伯母の思い出、それに沢渡晶の作品が入り混じり語られ、一冊が構成されていく。
時空を行き交い、いくつものテキストが同居し、作中作が次々と挿入されていく、なんとも複雑な構成を持つ小説は、いかにも「美しき拵えもの」といった趣。
これがどのように生まれてきたかといえば、作者はまず、さほど長くない幻想的な話をいくつか書いたという。それらを短編集として並べるより、何か枠組みをつくったほうが読み応えは増すはずと考えた。
ならば、これらの短編を書いた架空の作家を想定しよう。そうして、幻想文学を手がける沢渡晶という人物のイメージが浮かんできたのであるという。
当初は、沢渡晶の「見出された作品」を順に並べるシンプルな話だったものの、書いているうちにどんどん新しい要素を思いつき、それらを入れ込むにはどんな枠組みをつくればいいかアイデアを絞り出し、構造を考え……。
ということを繰り返し、いつしか増築を重ねた建築のような作品になっていった。
「過去の文学とともに書いていく」
もともと、物語の「語り方」には、こだわりのあるほうだった。
それには世代的な側面もあると、倉数茂は述懐している。高校〜大学時代は1980年代で、高橋源一郎やホルヘ・ルイス・ボルヘス、フィリップ・k・ディックら、ポストモダンでメタフィクションな小説に夢中になった。
単純にストーリーを語るんじゃなくて、虚構というものをどうやってつくっていくかに関心が向かったのだ。
「語り」の観点から先人のなしたことを常に横目で見ながら描かれているからか、『名もなき王国』の読み味は、膨大な文学の遺産の存在を強く想起させるものとなっている。
過去の文学の歴史が、しっかり踏まえられている感触があるというか。
著者・倉数茂は実際、20歳のころより「表現にはまったく新しいものなんてないんじゃないか」という気持ちを抱き、先行する表現を下敷きにしていけばいいという考えのもと執筆を続けてきたという。
デビュー作のジュブナイル小説『黒揚羽の夏』にも明確な下敷きがあって、それはアーサー・ランサム『つばめ号とアマゾン号』と、詩人・天沢退二郎の児童文学である。
先人の業績を踏まえながら、倉数茂は物語ることに対する情熱を絶やさずにいる。『名もなき王国』の「私」は、物語を書きたくて悶々としている人物。そこには作者自身が色濃く投影されているだろう。
倉数茂にかぎらない、ひとはだれしも自分の人生を物語化して、初めて生きている実感を得られるものなんじゃないか。実際に小説を書くかどうかは別として、自分の歴史をなんらかのストーリーにして自分を納得させている面があるはずだ。
ひとはみな、物語を紡ぎながら生きている。
小説家とはそのことを明らかにし、作品を通して物語る喜びをみなとともにしていこうとするひとの謂いである、きっと。