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「セールスマンの死」7   20211005

 父の小物っぷりは私の小さいころから、日々いかんなく発揮されていた。子どもなど何もわからぬだろうと高を括るのはまったく大人の驕りだ。
 朝の父はいつもぐったりしているし、夜更けに帰ってきたあとは行動すべてが荒っぽい。どちらも嫌いだったが、夜のほうがよけいに鬱憤を引きずっていていっそういやらしかった。
 世のすべてがおもしろくもない! そんな気分の放散量は、年を追うごとに増していったものだ。私が小さいときはまださほどじゃなかったのに、高校生になるころにはかなり露骨となった。きっと仕事がうまくいってなかったんだろう。
 
 あれは私が高校三年生になった梅雨時のある夜のこと。家の隅にある四畳半を勉強部屋としてあてがわれていた私は、受験生という自覚も実感もまだまだ湧かず、わずかに開けた窓先に降り落ちる雨粒を眺めて時間をやり過ごしていた。
 と、ギュギュギュッと鳴るタイヤの音とともに、手狭なスペースに車がバックで駐車された。割り当てられた営業エリアがやたらに広いらしく、父は連日ずいぶん遠い町まで出かけては帰ってきた。長距離の運転は身にこたえるのか、運転席でぐったり項垂れてしばらく動かぬ後ろ姿が細く開けた窓からちょうど見えた。

 しばらくするとおもむろに室内灯がつき、運転席の父は助手席に置いたアタッシェケースから紙を取り出し何やら書こうとする。その動きもぴたり止まると、急にダッシュボードを足蹴にした。雨垂れを乗り越えて音が聞こえてきそうなほど激しく。当時はなんだろうと思ったが、いまはおおかたわかる。営業報告書でも書こうとして、売り上げなんてろくにないものだから筆も動かず、八つ当たりしていたってところだろう。

 万事あきらめたのか、書類をしまった父はようやく車から降りてくる。助手席からアタッシェケースを引きずり出し、左手に持ったさまはいかにも重そうだ。あの中に百科事典が入っているんだ、売れなきゃきっといつまでも重いままなんだ。
 ドアの前でポケットを探るも、鍵が見当たらず舌打ちするのが部屋にまで聞こえた。アタッシェケースを地面に置く音。ズボンをまさぐり直し、ようやく鍵を引っ張り出して乱暴に鍵穴を回す音。荷を引っ張り込んで靴を放り投げるように脱ぐ音は、室内を通って響いてきた。
 慌てて母親が台所から廊下へ出る。何か発した母の声をすり抜けて、どかどかと廊下を大股で三、四歩進み、ダイニングテーブルのいつもの席に座り込む派手な音が、ひどく耳障りだった。

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