
五十年間失敗し続けた男 平田靫負伝 2 溢れる朱色 20220113
平田は身を震わせ、上目遣いに辺りを窺う。
彼のいる邸は、木曽三川が育んだ広大な平地にぽつりと建つ。
風が舞わず物音もない夜更け。腹の皮を裂く物騒な音は、平野をどこまでも駆け抜けていきそう。邸内の誰か起きてきやしないか。
平田は動きを止めてしばし耳を澄ます。
大丈夫な様子。周りに何ら変化はない。
自分を俯瞰する覚めた意識があることに、平田は驚いた。
いったん仕儀に入れば、荒ぶる感情と苦しみが堰を切って襲うかと思えば、そうでもない。
そもそも痛、くない。
怖れ、もまだやってこない。
安堵して、視線を腹に戻す。家宝と銘じ大切にしてきた刀身の鋼が、鈍く光を放って眩しい。
刃先が僅かにめり込んだ我が腹の肌は、加齢で張りを失くしたとはいえ、弛みも皺もない。幼少の頃より薩摩藩士の名に恥じぬよう鍛錬を重ねた成果と思えば、平田はすこし誇らしい。
実のところはここに仕事の拠を構えて二年弱、満足に食べる機会もなく、絞れているというよりただ痩せさらばえただけなのだが。
ともあれ平田の腹は、刃先を呑み込んでなお泰然としている。
我が体躯は刀身にも打ち克つかと思い、張り詰めていた平田の気がすこしばかり緩む。
変化は身体にもすぐ伝わる。尾てい骨から頭頂まで、硬く張り詰めた一本の剛線が先程から平田の姿勢を支えていたが、いまふいにその太く硬い線が消え失せた。
途端に平田の腹の上、切先から朱色がにょろにょろ溢れてきた。鮮血に照らされて浮き上がる己の腹の生白さを、平田は恥じた。
恥ずかしい! こんなもの、ゆめ人眼に晒せぬ。
これは、取り返しのつかぬことを、してしまったのか私は?