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「セールスマンの死」13   20211011

 父の髪やら頬やらを撫で回して止まない母の姿を、私は正視できなかった。両親のスキンシップなど見慣れていない。

 同時に、焦りの気持ちも湧いた。いまを逃せばたしかに、永遠に触れる機会は失われる。そう思うと、触れておくべきなのか? と思えてくる。
 妙なものだ。生きているあいだは、父親に触れることなんてついぞなかったのに。長じて後はろくに帰りもしなかったのだから、当然ながら最後に父に触れたのはおそらく子ども時分で、それもいつどんなときだったかは思い起こせやしない。

 棺の中に散りばめられた花を遺体に寄せるふりをして、私は父の首元にそっと左手を近づけてみた。中指が皺の寄った父の皮膚に触れんかという瞬間、ものすごい冷気何して反射的に手が引っ込んだ。オモテからは見えないよう巧妙に、遺体はキンキンに冷やされているようだった。
 それはそうだ。放っておけば肉塊などあっという間に腐敗するに決まっている。梅雨がもう明けるかという季節なのだからなおさらだ。そういえばさっきから室内も異様に寒かったといまさら気づく。

 冷気に自分が怯んだだけなのに、父から強く拒まれたみたいだなと思っている隙に、「では……」とスタッフがそそくさと棺の蓋を閉じてしまった。
 事は着々と進む。これより火葬場へ向かうため、棺をすぐに霊柩車へ運び込むという。
 近しい者が乗せてやるのが通常のようだけど、男手が足りず私以外はスタッフが総出で手を貸す。棺は無事にバックハッチから車に収められた。

 火葬場まで付き合うのは家族だけだったので、霊柩車に同乗することになった。母は後部座席の棺の隙間に、遺影を膝に乗せた私が助手席に座る。手狭だったが、火葬場はすぐ近くにあって車ならものの十分ほどで着くのだから文句は言えない。

 車は実家の方角へ向けて滑り出した。近くの幹線道路を抜けて、山あいの火葬場まで進むはずだ。なんだか息苦しくて、遮光シートを貼って薄黒い車窓から私はしきりに外を眺めた。ガラスが反射して、流れ行く住宅街の家並みとドス黒い色をした私の顔、それに白い棺がダブり溶け合って眼に映った。


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