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読み書きのレッスン 徴(しるし)の発見  夏目漱石「三四郎」

「うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。」

 というのが出だしの一文。これは出来事の描写だけど、文末が「いた」ではなく「いる」と現在進行形になっている。
 それにより過去を振り返って語るのではなく、今まさに世界が動いている感じが出ている。
「三四郎」は熊本から帝大へ入るため上京した小川三四郎が、大東京と疾走する明治という時代に翻弄される青春小説。見るもの聞くものすべてが珍しく、あれこれに影響されまくる三四郎の精神の揺れ動きが読みどころ。そのライブ感が冒頭でよく演出されている。
 続いて二文目で、いま三四郎は汽車という一直線に疾走するものの上に乗って、どこかへ運ばれていく最中であることが明かされる。「駅」という単語からそれが知れる。そして隣の爺さんに言及する。
「この爺さんは慥かに前の前の駅から乗った田舎者である。」
 よく知りもしない相手を「田舎者」と決めつけて、なぜか下に見る、この性急さと傲岸不遜っぷり。
 性急と傲岸。のちに明らかになっていく三四郎の性質が、すでにはっきり示されている。
 三四郎の粗雑な思考回路は、若さゆえか。ただし、爺さんが乗ったのを「慥かに前の前の駅」と見て覚えていたりと、意外に丁寧に記憶を整理するタイプか。頭の出来は元来悪くなさそうだということも匂わせる。
 三四郎の意識の焦点、つまり関心事がどこにあるかも、冒頭であからさまになっていておもしろい。
 一文目で三四郎は、起きるなり「女はどうしているか」と確認している。
 三四郎が気になっているものは何よりも、たまたま乗り合わせた女性なのだ。女性のことが気になって仕方ない。けれど自分から声をかけるなり何なりアプローチをする勇気など到底ない。ゆえに情報は増えず、彼女を「女」と呼ぶ以外にない。
 三四郎に多少の余裕があればもうすこし観察して、「生地は古いが折り目はきっちり入れて丁寧に着物を着こなしている女」とか何とか、すこしくらい情報も増えるだろうに。
 女性という存在全般に漠然と、しかし猛烈に興味をそそられるばかり。それが三四郎の現状というわけである。
 漱石は創作を始める前に著した「文学論」で、しきりに「小説とは人物の意識の焦点を追い、書くものである」といったことを述べている。
 焦点はどこにある? という点を追っていくと、漱石の創作意図はずいぶん見えやすくなる。


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