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第十六夜 『ケンブリッジ・クインテット』  ジョン・L・キャスティ


 1949年のこと。ケンブリッジ大学クライスト・コレッジでディナーが開かれた。主宰は英国きっての知の巨人、C・P・スノー。

 第二次世界大戦後の時世、コンピュータの威力を思い知った英国国防省がその可能性をスノーに打診した。答申を書くこととなったスノーは最高の知性を一堂に集め、コンピュータの潜在能力について議論してもらおうと目論んだ。

 ディナーの席に着いたのはスノーのほか、量子力学の先駆者シュレーディンガー、20世紀の哲学を切り拓いたヴィトゲンシュタイン、遺伝学者のホールディン、コンピュータの創始者とされる数学者チューリング。

 ディナーの進展とともに、このメンバーによる討論が熱を帯びていく……のだけど、これはフィクションであって、この5人がケンブリッジで議論を闘わせたという史実はない。

 科学研究者である著者が仕掛けた、壮大な思考実験というわけ。でも哲学、心理学、数学、物理学、生物学その他、あらゆる学問領域を横断しながら進む議論はすこぶるおもしろい。

 議題は「考える機械は可能か」というもの。人間のように考える機械をチューリングらが構想しているというので、その実現可能性を話し合うことにしたのだった。

 一定のルールに従って計算する機械を製作中だとチューリングが言えば、

「機械のようなものに『考える』などという言葉を当てはめるのは愚にもつかぬ」

 とヴィトゲンシュタインは返す。いくら複雑な計算はできても意味を理解してはいないに決まっている、意味というものは言語ゲームに参加することからしか生じないとし、

「人間のあらゆる思考は言語表現と密接に結びついています。言語のないところに思考などあり得ません」

 と断言する。

 チューリングは、

「人間の脳の構造になんら特別なものはないと信じています」

 と人の特権性を認めず、

「科学技術が大いに進歩すれば、いつの日か知的に人間と区別できないコンピュータが作れる」

 とも。両者、譲らず。

 どちらが勝者ということもないけれど、「知」や「教養」を使うとこんなスリリングな議論をしたりできるのだなと、そのこと自体に憧れを掻き立てられる。


ケンブリッジ・クインテット

ジョン・L・キャスティ

 新潮社

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