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「セールスマンの死」9   20211007

 いまの若い連中はみんな、あんなもんなのか? まあウチにもひとりおろうが。何を考えとるかわからんのが。

 いきなり自分に話頭が向いて驚いた。酔いの回った父の声はいまやもう、襖に隙間を空けて聞き耳を立てなくたって小さい平屋を領して響いてくる。

 最近は毎晩受験勉強しとるって? まあどんなもんか。だいたいアレだ。小さい時分はすこしはアタマが回ったから名大でも行くのかと思ってすこしはおもしろそうだったが……。
 まあええわ。県大でも行けりゃ、中部電力か東邦ガスに潜り込めるだろ。そういう半官半民のところがそりゃいい、いちばんラクだわ。世の中のしくみがわかっとるジンはみんなそう言うわ。
 県大くらい行っときゃあ、あとはいざとなりゃ就職くらいクチをきいてやってもいいしな。

 あ? お前はものもわからんのに。口挟むんじゃないわ。あ? あいつが東京に行きたいって言っとる? 馬鹿言わせとけ。そんなの何の意味がある。そりゃなんだ、早稲田とか慶應とか通うならええよ。それなら大学終えて帰ってきたら上様だわ。そういう能力も甲斐性もないくせに夢物語を言わせとってどうするんだ。

 あいつはもう寝とるんか? 心得違いしとるなら、正しとかないかんぞ。そもそもあいつは学校とか近所でちゃんと人に好かれとるのか? それが社会じゃいちばん大事なことなんだぞ。セールスエリアにいるときの俺なんか見たらすぐわかる。言ったろう? こないだも市長と懇意だっていう者が、居酒屋で向こうから話しかけてきて……。

 話題はすこしずつ入れ替わっていくものの、父の独演は本人が酔い潰れて寝つくまで毎晩続くのだった。たったひとりの聴衆を務める母は、いつもどんな気分で黙って耳を傾けていたのか。
 それに、あれだけ大きい声でクダを巻いているのが、息子の耳にも当然届くだろうことは考えないんだろうか。アルコールにおかされた脳は、そこまで思い至りやしないのか。

 そうして朝になると、馬鹿みたいに大きい焼酎の瓶が台所脇の勝手口に続く戸の前に行儀よく置いてあり、食卓にはぐったりと生気ない男が座っていて、すこしでも酒を抜こうと熱くて濃い味噌汁をむりやり啜っている。それがいつもの光景だった。正視するのが堪え難かった。
 そりゃどう考えても、この人から百科事典を買おうなんて奇特者はいるわけもない。父がセールスマンとしてジリ貧なのは、サラリーを知る母はもちろんのこと高校生の私にだって、自明のこととして感じられた。

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