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第二十九夜 「キュー植物園」ヴァージニア・ウルフ 〜月夜千冊〜

 ロンドン南西部、テムズ川沿いに広がるキュー王立植物園といえば、18世紀から歴史を刻む世界最大級の植物園。無数の植物種と遭遇できて、園芸好き・植物好きにとっては絶対的な憧れの地であるとともに、そぞろ歩く庭園としても本当に居心地がいい。
 そんなキュー植物園での人や自然の営みを、とりたててストーリーの行き先もないまま、ウルフは文章でスケッチしていく。ふうんただのスケッチ小品かと思えば、まったくそうじゃない。その描写の精緻さと生気たるや、只事じゃないのだ。
 知るかぎり最もスロウな描写が、ここでは達成されている。
 たとえば、園を訪れたひとりの女性が、花壇で咲く花を眺めている。どんなふうに、か。深い眠りから醒めた起き抜けに、最初に目に入った真鍮の燭台をぼうっとただ見ているときのような様子で眺めているのだとウルフは書く。


「眼を瞑り、また明けて、そしてまた視線を真鍮の燭台に戻す。ようやく覚醒が本格的になる。そして、意識のすべてをもって燭台を見る」

 と。起きた直後のこの感じって、よくわかる。眼をパチクリしているうちにようやく意識が視覚に追いついてきて、眼に映るものの意味が徐々に把握できるようになっていくあの感覚。


「太った女はそんなようすで楕円形の花壇の前に佇んで、もう一人の女の言葉に耳を傾ける振りさえ止めてしまった。彼女はそこに立ちすくんで言葉が自分に降りかかるにまかせた。上半身を前に後ろにゆっくりと揺らしながら花を見ていた」

 ふつうなら「うっとり花を眺めていた」の一行で済ませてしまいそうなところ、ウルフは「どのように?」の部分をこれでもかというほど膨らませていく。
 そうした園内を巡る人たちがつぎつぎスケッチされる合間に描写され、舞台回しの役割を担うのはカタツムリだ。一匹のカタツムリが花壇の中を這っている。その様子もウルフは克明に書く。


「やがて蝸牛はでこぼこの地面を覆った脆い土塊のうえを這いはじめた。蝸牛が這うと土塊は壊れ、散々になった」

 と。散歩を楽しむ人たちのしぐさ・言動に注ぐのと同じ熱心な観察眼をもって、カタツムリの動きと心理に迫るのだ。ただ時間が、流れる。そうだ、カタツムリにはそれぞれのカタツムリに特有の、時間の流れというものがあるんだろうと気づかされる。
 一編を通じてウルフが為しているのは、完全なる時間の掌握だなと感じる。個々の生きものには固有の時間が流れている。それらを書き分けることで、この小説全体の時間の流れをウルフはコントロールしている。
 見えるものも見えないものも含め、あらゆるものを描写し尽くす意思によって、ウルフは「意識の流れ」どころか「時間の流れ」まで意のままにする。描写の可能性は大きく、小説にできることは思いのほか多いぞ、どうやら。


ヴァージニア・ウルフ短編集 ちくま文庫


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