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『竜とそばかすの姫』から、何を盗めるか?

『竜とそばかすの姫』、行った。観た。堪能した。
先人の作品って、享受者としてはまず味わい尽くすためにあるのだから、「おもしろかったー」「ちょっと不満かも」と自由に何かを思えばそれでいい。
けれど、後に続く作品をつくらんとする身からすれば、先行作とはパクったり反面教師にしたり、ひたすら使い倒すべき対象だ。
では、『竜とそばかすの姫』から盗めるのはどんな事柄か。以下に抽出してみよう。

1 テーマのとり方がすごくいい。やはり時代を反映した、広く共感を呼ぶテーマを掲げるべし。

主人公のすずは、アバターになって振る舞える「U」の中に入って、初めて自分を表現できた。
本当は歌うことが好きなのに、現実世界では「どうせ私なんて」と、カラオケのマイクを自分で持つことすらできずじまい。それが「U」では一躍、世界的な人気を誇る歌姫に。
「やっと、歌えた。聴いて、もらえた」
と喜びを噛み締める、すず。みんながSNSで求めていることって、まさにこれだろう。現実界とはちょっと違う自分になって、好きに振る舞って、ちょっと有名になれることを夢見てる。
あらゆるネット民は、すずに憧れる。というわけである。
作品前半で、すずはすぐ「U」のスターになる。その時点で多くの観者はカタルシスを得られる。こりゃヒットするはずだ。
同じ時代を生きる多くの人が共有している欲望を、ちゃんとくすぐるのは大事。それをできるようにするには、せっかく自分が生きているこの時代について、広く関心と好奇心を持つことだろうな。そうすればすこしは周りを観察するようにもなる。「やっぱりこんな時代、気に食わねえ」と結論づけるのももちろん自由。ただそのためには、まず知ろうとしなければ。

加えて言えば、創造の「ひと筆め」が描かれているのもよかった。
どんな絵画にも最初に筆を下ろす「ひと筆め」の場所があるように、どんな創造にもひと筆め、すなわち最初の一歩になる契機や衝動があるはず。その瞬間や地点には、きっと大きなエネルギーが凝縮されたかたちで渦巻いている。そこに目を向けたいという気持ちが、僕の中にはいつもある。
『竜とそばかすの姫』では、すずがひとり川のほとりを歩きながら、「お、曲が浮かびそう」と言ってララーと口ずさみ、満足げにフンと鼻を鳴らし、メモっとこうとスマホを取り出すシーンがある。あ、ひと筆めの現場だ。と思った。表現したい、という気持ちが自然に顕れていていい。歌いたい人、漫画を描きたい人、文章を綴りたい人、みんなその第一歩目を通過するはず。
「あ、できそう……!」という予兆が自分の内側に宿る瞬間は、貴重で美しいではないか。

2 リアクションとアクションをサボっちゃダメだ!

今作は話が盛りだくさんなのは間違いない。それでラストシーンへたどり着くためには、ぐいぐい出来事を重ねていかねばならない。
そのせいか、出来事が起こったあと、その出来事を受けての人物のリアクション(受動的感情)やアクション(能動的感情)がすっ飛ばされていたりすることも。
たとえば現実世界で、竜を探して逢いに行く場面。すずが「行かなくちゃ」となると、周りの人たちはすぐに場所を検索したり移動手段を考えたり。父親に至っては、LINEで連絡をもらうとふたつ返事で「必要なことなんだね。行ってらっしゃい」と。危険なところへ少女が単身乗り込んでいくと聞いたときの戸惑いや逡巡は、描かれない。
あらら、そこを飛ばしてしまっては……。物事への反応のしかた。認知のしかた。それが個性なのに。そのキャラクター特有の反応や認知がどう展開されるか、その過程を追体験するのが物語のおもしろさだろうにな。もったいない。
「出来事・リアクション・アクション」というサイクルを決しておろそかにしたり、どこかで見た定型で済ませたりしないこと! 

同じように、情動がほとんど描かれないことも気になった。情動とは、身体性を伴う感情のこと。身震いするとか、身体が燃え上がるように熱くなるとか。
すずは、川の事故で母親を亡くす。増水によって中洲に取り残されたよその子を助けるため、すずの母親は急流に身を投じ、帰らぬ人となる。
緊迫した場面のはずだけど、増水してすごい勢いになっているだろう川の怖さは、あまり伝わってこない。水流の抵抗は痛くないのか、水は冷たくないのか。すずの母が五感で感じたであろう情動は一切描かれないので、彼女の気持ちや覚悟が読めない。
彼女の最後の言葉は「行かないとあの子が死んじゃう」というものだった。そんな説明風なこと、子を置いて危険な地へ赴く親は言わないだろうなと思ってしまう。
そもそも見物人がたくさんいるのだから、ロープを出し合い体にくくりつけてから水に入るとか、何かしら試行錯誤や対策は練られてしかるべき。丸腰で水に飛び込んでは、すずの母親が単なる無謀な人に映ってしまう。実感が乏し過ぎる。「ここでとっとと飛び込んでもらわないと話、進まないんで。お願いしますー」と言われてでもいるみたい。
後半になって、すずが現実界での竜を助けに行ったときもそう。着替えもなく土砂降りの見知らぬ東京を彷徨うすず。肌寒くないのかな。転んでしまって顔に泥までついてしまう。不快じゃないのかな。
ようやく竜を見つけるも、彼の父親が出てくる。竜を庇うすずを父親は威嚇し、殴ろうとする。が、すずの目を見て、後退りして逃げ帰ってしまう。なぜだ? 彼のしぐさからは、その理由が読み取れない。「最初からそうプログラムされていたから、台本にそう書いてあったから逃げ帰りました」といった様子。すずと対峙して、竜の父親の内側になんらかの情動が走り、それで逃げ帰ったのだろうに。そこを、知りたい、見たいのだ。
五感に基づくリアクションとアクションは、無理にでもショットごとに出したほうがいいのだ、きっと。

3 キャラクターと事物を絡めろ。登場させたんなら、責任持って使え。

今作では、主人公たちが川辺を歩くシーンが繰り返し出てくる。川面は複雑に光を反射し、対岸の景色も日差しを浴びて輝いている。まるでフェルメール唯一の風景画『デルフトの眺望』みたい。
が、登場人物たちは、その美しい光景とまったく関わろうとしない。ちらとでも川面や対岸に目をやろうともしない。人物に絡んでもらえないかぎり、風景はいくら精緻に描かれようとも、書き割りにしかならない。もったいない。
人物たちが周囲の環境と無関係で没交渉だから、せっかく高知の自然を描き込んでいるのに、そこに意味が生じない。高知の夏の暑さが実感として伝わってこないし、舞台をここに設定した理由がちっともわからなくなっている。
アニメでも漫画でも小説でも、登場させたものとは責任を持って関係させよ、だ。
小説で、見知らぬ男女ひと組が登場したとする。そうしたらそのふたりは、何があってもなんらかの関係を持つ。現実だったら、そのまま通り過ぎるだけに決まっているけれど、作品世界ではそれじゃわざわざ描写した意味がなくなる。現実で起こりそうなことをなぞるのがリアルってことじゃないはずだ。


パッと書き出すだけでも、これだけたくさん「考えを喚起させるトリガー」があった。いろんなものを詰め込んだすごい作品だなと改めて思う。
傾向として、僕はこの手の詰め込み系作品が好きだ。なんらかの感情や考えが立ち上がるをきっかけが含まれていれば、それを拾って持ち帰り、あとはひとりこそこそと想像を膨らませ楽しめるタチ。だから作品内ですべてを完結させて明快に答えを出してくれなくても、いっこうに気にならないというか。
このあたりは人それぞれなんだろう。作品と名乗るからにはそれ自体で美しく完結してくれることを、強く求めるタイプもきっといるだろうし。
とっ散らかって破綻が多く、一つひとつの出来事やキャラクターが薄っぺらになっていると批判されがちな『竜とそばかすの姫』。僕にとっては、逆にそこが強みであり魅力になっているとも思えるのだった。


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