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創作論14 読者とともに書くとは

記憶の中から紡ぐ創作論の13回目。
小説や漫画では、読者と登場人物が結託して、知見を共有する手法がある。これを見てみる。


夏目漱石『それから』より例をとると、

これを哲学にすると、死から生を出すのは不可能だが、生から死に移るのは自然の順序であると云う真理に帰着する。「私はそう考えた」と代助が云った。

地の文で難しげな理論が展開されているのを受けて、主人公の代助が「そう考えた」と言うのだ。まるで代助が、読者とともに地の文を読み進めていたかのように。


内田百閒『白子』からも例をとる。「私」が道を歩きながら、神はいるかいないか、とあれこれ考えている。熟考の末、

兎に角神はいない、と私は腹の中できっぱりと断言した。

すると、いつの間にか並んで歩いていた年若の女性が、いきなり「私」の袂を執って、

それは貴方いけませんです。神様はいらっしゃいます。

と言うのだ。読者の分身のような女性の登場人物が、「私」の心内を丸ごと易々と読み取ってしまう。なぜか。テキストに書かれているからだ。


テキストに書かれてあり読者は知っているからという理由で、心内を読み取られてしまうパターンは古今たくさんある。

カフカの『審判』では、主人公が裁判に呼び出される。時間は指定されていないが、当日の朝9時に行こうと自分で決めた。道中に邪魔がはいって遅くなってしまいながら、どうにかこうにか裁判がおこなわれているらしき部屋を見つけ入っていくと、裁判官らしき男が開口一番言う。1時間と5分の遅れだ、と。


谷崎潤一郎『鍵』は、ある夫婦の淫靡な営みが、夫の若い助手たる木村に筒抜けだ。木村が秘密や心理を悉く知っているのはなぜか。作中では一応もっともらしい理由がつけてあるが、そんなのは言い訳である。ただただ、読者が知っているから、木村も知っている。木村は読者の思いを代弁する人物として設定してあるのだ。


ふたたび夏目漱石に戻る。『行人』では二郎なる男が、気になる嫂と一夜をともにする。間違いを犯しそうで悶々と考え込んで時間を過ごすも、結局手は出さない。
すると、

「大抵の男は意気地なしね、いざとなると」

と嫂が言い残し、場面はそこで切れる。嫂は読者の代わりに、ピシャリと二郎を丸め込んでくれる。


読者とともに書け、だ。読者が作品に介在する余地をつくれば、読書体験はより豊かなものになる。


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