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創作論11  まずはスタイルを選ぶのだ

記憶の中から紡ぐ創作論の10回めは、スタイルを選ぼうという話。

作品を書こうと思ったとき、まっさきにすべきは何か。
スタイルを選び取ることだ。

音楽だったらこれは、当然のこととして受け入れられている。
「あいみょんのコピーしてみたい」
「バッハの一曲でも弾けたら」
「BLUE GIANTのダイ・ミヤモトに俺もなる」
などなど、動機ややりたいことの違いによって、最初にスタイルは選択され、手にとる楽器も習得すべき技術も変わってくる。

なのに。小説やマンガをやるときは、ジャンルを選ぶ意識が希薄になる。
なぜだろう。おそらくは支配的なスタイルが存在しており、よほど気をつけないかぎり、そのスタイルを自動的に選択してしまうからだ。
小説ならそれは、自然主義的なスタイル。たとえば、

河原に風が吹いていた。柳の枝葉が揺れている。

「寒いわね」

洋子は髪をかき上げながら、隣を歩く宏に言った。

「ああ、寒いな」

川面を見やりながら宏が応じる。


ごく平凡な書き出しと思えるこの数行みたいなスタイルが、「小説ってこういうもんだよね?」と当たり前に採用されてしまう。
でもこれは、無限にある小説のスタイルのひとつに過ぎない。
本来なら、自分の書きたいもの・好きな雰囲気に合ったスタイルを、もっと吟味し選びとるべきなのに。
書き始める前に、自分にとって魅力あるスタイルを探し、見出したらそこにどっぷり浸かる。そのうえで、選びとったスタイルの様式性と格闘し、ときに逸脱しようとする。スタイルについて考え抜き、もがいた先に、新しい独自のスタイルが生み出せたりすることもあるだろうに。

スタイルとちゃんと格闘している好例を挙げるなら、森鷗外の『渋江抽斎』だ。
鷗外はこの作品を書くにあたって、史伝というあまり流行らないスタイルを選択した。
史実を調べて、明らかになったことだけを忠実に書く、というスタイル。

なので今作の記述は、基本的に「説明」に徹している。このとき誰それは何歳、あの人物は何歳まで生きて死んだ、などと延々と書いていく。
「ふつうの小説」が重視する「描写」は注意深く排除される。そのため比喩や形容詞も、ほとんど出てこない。

客観的な記述を旨としているから、書く対象と書き手の距離感もずいぶん遠い。カメラを引ききった、ロングショットだけの映画を観ているような印象となる。
同時代のライバル文学者、夏目漱石とは、あまりに対照的なスタイルだ。

ただし、だ。ごく稀に描写が挿入されていて、そこでは登場人物との距離もグッと近寄る。他の記述とあまりに雰囲気が異なるので、ものすごく鮮やかな描写に感じられる。たとえば、 

このとき廊下に足音がせずに、障子がすうっと開いた。主客はひとしく愕き~


という一文。「このとき」という語で、とっさに場面をつくる。描写の導入の合図だ。描かれているのは大した出来事ではないが、クッキリと場面が浮かび上がる。
鷗外は、対比の効果を計算し尽くし書いているのかもしれない。

『渋江抽斎』にはまた、近代的な感性と異質の考えがたくさん出てくる。
個人や人権の感覚がなく、いまでは許容されないような前近代的な考えのもと、人が行動しているのだ。
そうしたズレは、時代が違えば当然生じてくるもの。
明治という変化の時代に、人々が近代的感性一色へと染まっていくことへの徹底的な批評を、ここで鷗外はしているのかもしれない。
古い作品の解釈の違いは、いつの時代にも起こること。
万葉の歌もそうだ。柿本人麿の詠んだ有名な歌、

東ののにかぎろいの立つ見えて返り見すれば月かたぶきぬ

は、斎藤茂吉の解釈によれば、いかにも古代の雄渾な光景をうたったものだとされた。
が、のちに白川静は『初期万葉論』で、この歌は情景など描写していないとした。天皇霊が移り変わる呪術の成就を歌っているものであって、昔の人のメンタリティは我々の近代的な思考とはまったく違うと喝破したのだった。

小説をはじめフィクションの創作の目指すところは、究極的には歴史をつくり出すことだろう。
まずはスタイルを選びとること。そこから歴史の構築は始まる。


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