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月夜千冊 第八夜 『時間』  吉田健一

うねうねと続き、始まりも終わりもないような文章が吉田健一の特長で、そこが最大の味わいどころでもあるし、ときに、とっつきにくさのいちばんの原因にもなる。晩年の代表的著作の一つと目される『時間』でも、もちろんその持ち味は健在というか、吉田的文体の集大成がここにあるといってもいいくらい。本作の場合は、扱っているテーマがちょうど時間という得体の知れないものでもあり、結論めいたものをすぱりと提示できるなんてことは、いくら時代を代表する文士だった吉田をもってしてもやっぱり難しく、時間の正体について周囲をぐるぐると巡って糸口を探ることを、一冊を通して丹念に続けている。それこそ時間を気にしていたらとうてい読んでいられるものではなくて、その迷走ぶりが腹を据えて付き合えばつい笑ってしまいそうになるほどおもしろく、またそこまでの気力と大らかな気分がなければつらくてしかたなくなる。ただし延々と、坦々と過ぎていく時間とそうした文章があまりに相似形になっていて、ああ時間という捉えどころのないものを文章によって生け捕りにしようとすればこうなるほかないとおもえば、お見事としか言いようがない。吉田は本書をちょっとした情景描写で始めていて、冬の朝、枯葉が光にさらされているのを見ていると、知らず時間が経っていることから説き起こしていく。一つひとつの言葉や文章が難しいわけではないので読んでいて楽しめないということは決してなく、流れに乗って読んでいると知らず時間についての輪郭をつかみかけている自分に気づく。でも、そのつかみかけたものを本の叙述から切り離して眺めてみようとすると、意外なほどたわいのないもののように見えてきて拍子抜けしたり。不思議なものだけど、それが時間の実体なのかもしれない。

「時間は凡てのものをなすその基本の要素、或は条件であるから或るものが実際にある時にそこに時間もある」

と吉田が書く通り、時間とはただそこにあり、時間がなければすべてがないことになる。さらには、

「時間は何の為にあるのでもなくてただあるので時間が含む一切のものも何の為にあるものなのでもない」

とも。なるほどそこに意味や目的なんてなく、時間はただ、ある。では時間をすこしでも感じ取ったりすることはできるのかといえば、一つの方法としては物質方面から考えを進めるのではなく、できるだけ精神の領域に引きつけて時間を捉えようとする。それが肝要であるという。もう一つには、できるだけ小さなことに目を向けること。自分がある状況に身を置いているとして、その全体の中のたとえば、窓からの日差しが床のどこに落ちているかに目を凝らす。

「もしそうした価値観から床に差す日光を無視するならばこれがその時の状況から脱落して状況が全きを得ないことになる」

自分が体験している状況は丸ごと時間の産物であり、その状況が時間そのものといってもいいのだから、状況の全きを得ようとするのが時間について解ることにつながる。そのためには、床に陽がどう差しているのか、そうした細部をゆめおろそかにするわけにはいかない。細部を慈しむのは親密さの表れでもある。時間を、ということは状況や社会や自然、すなわち世界、を手応えあるものとして感じ取るには、それらと親密に交わろうとする態度が必要になってくるのだ。吉田健一が導いてくれる境地は、驚くほどシンプルかつラブリー。強面のおじいさんが口の端だけで一瞬つくる笑みのようなもの。

時間

吉田健一

講談社文芸文庫

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