読み書きのレッスン まわりくどいステートメント
「熱しづらく、また冷めづらい」
自分の体質に特徴があるとしたら、真っ先に挙げられるのはこれだ。
たとえば、小さいころ運動能力テストでやった踏み台昇降運動。あれで僕はいつも異様な数値を叩き出し、保体の先生に首をかしげられていた。
あのテストは、静状時の脈を測っておいてから、踏み台を使ってしばし昇降運動をする。再び脈を測ると、心肺が活性化した分だけ数値が上がる。その差分がちゃんとあることで、「ちゃんと血が巡っているな」と確認できるわけだ。
僕の場合、静状時の脈がそもそもかなり遅い。それが運動をしても大して上がらない。数十秒の踏み台昇降運動くらいじゃほとんど影響が出ないのである。
先天性の不整脈じゃないか、急に心臓が止まるようなケースを警戒するべきでは、などと言われ検査をしたこともあるけれど、一応それなりに力強く心臓は動いているみたい。むしろ心肺機能が生まれつき強いから、必要最小限の脈動でやっていけるのだろうとの見立てで落ち着いた(いわゆる「スポーツ心臓」と呼ばれ、長距離走選手などにはそういうタイプがちょくちょく見られるらしい)。
体質がそのままつながっているのかどうかはわからぬけれど、性質的にも、
「熱しづらく、また冷めづらい」
というのはそのまま当てはまる。
小さいころから、感情の起伏が少なめだった。いや、そりゃ起伏は自分なりにあるのだけれど、外から見て気づかれるほど大きな波にはなかなかならない。
ただし、ある一線を越えるとプラスにしろマイナスにしろ感情に火がついて、これがまたいつまでも消えなくなる。それで、ほんとうに好きなことにだけは、異様に執着してしつこいこととなる。周りの声や世の流行なんてどこ吹く風だ。
そんな性質だから、自分の中に宿してきた感情の数はといえば、少なめかもしれない。次々にいろんな感情が自分の中にやってきては翻弄されるということは、してこなかったのだ。
だから熱しやすい人が、次々といろんな感情を帯びて、それをためらいなく人目に晒すのを見かけると「おおっ」と思う。その状態自体に感嘆する。
「熱しづらく、また冷めづらい」というのは、外から見れば感情が希薄ということになるんだろう。
それは本人からすれば渋々うなずくしかないのだけれど、とはいえもちろん感情がないわけじゃない。いやむしろ、自分が次々と感情を帯びることができない分、いろんな感情への憧れや関心は人一倍あるのだ。
むかしから本を読むのは大好きで、感情の容れものたる小説にも多く触れてきた。それは「感情に触れたい、知りたい、できることなら蒐めて愛でたい」という気持ちの表れだったんじゃないかな。
物語を書きたい、というのもそういう僕の感情の発露だ。「読む」が嵩じれば、とうぜん「書く」に至る。書くほうがもっと深く関わったりまみれたりできそうだし。
感情コレクターになりたい。ノンフィクションであれフィクションであれ、僕が人を書きたいというのはそういうつもりでやっているのだ。
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