考えるピント 隈さんとMameさん
隈研吾さんの建築から
隈研吾さんの個展が東京国立近代美術館で始まっていて、興味深い点がいくつか。
ひとつ。猫になって考えるというベタだけど大胆かつ斬新な試みが心に響いた。
猫目線で見直したら、街や建築、空間の捉え方は変わるんじゃないかと考えた建築家は、現在リサーチを継続中だとか。近いうち猫の気分になって過ごせる建築なんかが出現するかも。
これまで世のほとんどの建築は人間の身体感覚から脱していなかった。人のスケールから外れた建築ができたら、それはそれは斬新なものになることでしょう。
もうひとつ、だれの目線で建築はつくられるかということの延長として。東京の新国立競技場の視点が気になった。
このスタジアムには隈さんも設計に関わっているわけだけど、つくるにあたって真っ先に考えたのは「高さを抑える」ことだったという。神宮の杜全体との調和を考え、できるかぎり土地に馴染む形態にしようとした。
その効果はしかと出ている。スタジアムの前を通っても、あれほどのボリュームある建築なのに威圧感がない。東京の住民という立場からすると、さすが隈さん、ありがたいものをつくってくれたとなる。
ただ、観客となったときはどうか。スタジアムの高さがないと、観客席の傾斜をつけづらい。実際この新しいスタジアムの観客席はかなりなだらかで、端的に競技が見づらい(にちがいない。入ったことないので正確なところわかりませんが)。
トラックもあるのでサッカー観戦にはかなり不向きだと指摘する声は、すでによく聞く。
スタジアムはだれのものか。それが使われる場面とはいつのことを指すのか。
何かをつくるときは、だれにどう届けたいのか、考え続けないといけない。
そして、あらゆる立場の人を満足させられる創作というものは、ないということもわかっておかなくちゃいけない。
Mame のこと
Mame Kurogouchi の展覧会が長野県立美術館でやっている。これは早々に観なければと行ってきた。
このファッションブランドを築いてきたデザイナー黒河内さんの「10年に及ぶ創作の旅路を紹介」するという触れ込みの展示は、まさに彼女の旅路をたどるような感覚になれるものだった。うっとりする。
コレクションをつくるときの黒河内さんは、ものすごく貪欲だ。毎回の過程は共通していて、いつもまずは徹底的なインプットをする。旅に出たり、書物に浸ったり、人に会ったりしながら、そのときの自分に最も切実な感情をひとつ、抽出する。それがコレクションのテーマになる。
見出したテーマを服というかたちに落とし込んでいくときも、また同じように手間隙をかけていく。ほうぼうを歩いて見て感じて、読んで書いて、話を聴きながら手を動かし、ようやっとひとつの創造物が現れ出る。
だからなのかな、Mameのつくるものはどこまでも健康的というか、健全さを感じる。たっぷり陽を浴びてまっすぐ伸びた若木みたいな。
ファッションのコレクションがまとっているどこか頽廃的な感じとか病みっぷりのアピール(偏見ですが)のようなものが、ぜんぜん見当たらないのだ。
それにしても不思議に思うのは、Mame Kurogouchi がなぜここまで、ものづくりにおいてストーリーにこだわるのかということ。
ファッションはまずもってビジュアル的で身体的なものであって、言葉とか物語性と離れて成立し得る表現かなとも思う。けれどMameの場合は、創作の全体が物語に満ち満ちている。そこがおもしろい。
「ものづくり」と「ものがたり」が不可分になっている理由、気になる気になる。
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