第二十五夜 「陰気な愉しみ」安岡章太郎
なるほどこういうのが、書き手本人の心境を細かく描く「私小説」の典型なのだなあ。
月に一度「私」は、横浜の役所に年金をもらいに行く。戦争で負傷したことからおりる金なのだけど、その日が近づくとやけにそわそわしてしまう。いざ出かけても、役所の担当者の一挙一動にびくついてしまう。そうして、
「私は、こんなにまでして金が欲しいのだろうか。」
との自己嫌悪に苛まれるのだ。
ただ、そこには嗜虐的な喜びがあることにも、「私」は自分で気づいている。
自分の中に卑屈な感情を見つけ出し、身体中に屈辱感を詰め込んで帰るのは、一種の快感を伴う。嫌だ、不安だと言いながら、その日を待ち遠しく思っている自分がいる。
「これは陰気な愉しみである。」
と「私」は自白する。
あるとき、どうした弾みか、役所がふだんより千円多く金をよこした。
帰り路、「私」の心は弾んだ。
「商店街がみえはじめたとき、雑然とした店々の看板や装飾が一つ一つ、ある力強い手ごたえをもって眼の中に飛びこんできて、私はふところの中の紙幣が、水から上ったばかりの魚のようにイキイキと躍動するのを感じた」
「私」は目星をつけたレストランへ入ろうとするが、なぜか足が勝手に迂回してしまってどうしても入れない。気後れ、だろうか。
しようがないので、代わりに靴磨きを念入りにしてもらって帰る。散財したい気分だったのに、大した散財もできずに終わってしまった。
駅の構内で「私」は、なんとなしに憂鬱だった。汽車がくるまでには、だいぶ間があった。
「ながいプラットフォームを私は、はじからはじまで一人で歩いた。……きょう一日中の愉しみを塗りこめて光っている靴をはいた足で。」
という一文で一編は閉じられる。
なんとも名付けづらい心境が浮かんで前景化し、すぐ後退してまた違う心理が前景化し……という波を、つぶさに描いていく。この細やかさはたしかに自身の胸の内を覗き込まないと書けないかもと思わせる。
同時に、こんなことしていたら隘路に潜り込んでいくばかりですぐ行き詰まる、広いところへつながる回路も持たないとでは? とも。
私小説の可能性と限界を一挙に感じさせる短編。ということはやはりこれが、私小説の一典型作品なんだろう。
近年人気の日本の漫画のけっこうな部分は、私小説的というか「私漫画」だなということにも、気づかされるのだった。
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