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創作論10 作品内の関心事を、あえて言わずに関心を惹きつける

記憶の中から紡ぐ創作論の9回目、肝心なことは言わずに済ませるか、言うにしてもできるだけ後出しせよ、という考え方を。


日本の文芸の世界では古来、「省筆の美学」が存在してきた。
文章は余計な部分を削りに削り、行間を読ませるのを旨とすべしとの考え方だ。
実体がないのに思わせぶりはダメだけど、肝心なところをあえて語らずに済ませ、読者に想像をたくましくしてもらうのはたしかに有効だ。

そもそも作品において、作者と読者の持っている情報は、原理的に不均衡である。
書く側の作者はすべてを知っているが、読者は書かれたことしか知る由もない。作者は常に優位に立っているので、情報をいつどれだけ渡すかを調整することで、読む側をよりいっそう愉しませようとの姿勢は持っておくべし。

核となる部分に何があるかわからぬままにしておくのは、日本文化のひとつの特質でもある。
「秘すれば花」と言い、「陰翳礼讃」と言い、寺社には秘仏や御神体があり、過密都市東京の中心は皇居という大きな森が存在する。


ことの中心を語らぬ「黙説法」を、村上春樹は多用してきた。
村上作品では主人公の彼女や妻が突如姿を消すことがよくある。肝心の理由や動機はわからぬままに。中心の謎がいつまでも語られないことで、読者は勝手にヤキモキしてあれやこれやと想像してしまうのだ。


夏目漱石『門』にも、黙説法は仕掛けられている。
主人公の宗助は、神経衰弱になって、鎌倉の禅寺にしばらく籠る。禅問答として「父母未詳以前本来の面目」とのお題を出された宗助は、答えを提出する時間になって老師の前へ出た。

 この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ」と忽ちいわれた。「その位な事は少し学問をしたものなら誰でもいえる」


宗助はなんと言ったのか。テキストでは明示されない。おそらくは「無」とかなんとか言ったんだろう。それを書かずに済ませ、読者に想像させるようにしている。
これをはっきりと書いて、
「気力なく坐った宗助は、『無』と一言、口にした」
などとした場合と比べ、どちらに面白味があり、印象が強くなるか。
そりゃ、明示しないほうがずっといい。
「なんて言ったんだろうな宗助は。あの半端なインテリ、どうせ無とかなんとか言うんだろうな」などと宗助やその場面について、あれこれ読者に考えさせるほうが演出効果は高い。

さらに言えば、このまま話を進めたうえで、そのうち違う場面で「無」が問題になったとき、そのとき初めて、
「宗助は禅寺で口にした言葉を思い出した」
とやれば、ああそうだったのか、そういうこと考えていたんだと読む側に思わせることもできる。
情報はポンポン繰り出さず、後出し気味のほうが、読者の注意を惹きつけられるのだ。

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