彫刻を読む 《火焔型土器》
これを彫刻と呼ぶべきかどうかは、彫刻の定義をもすこし固めてから考え直したいところではあるけれど、日本で生まれた造形として縄文土器を原初のものとして据えるのには、異論がないはず。なかでも、燃え上がる炎をかたどったような《火焔型土器》は、最も派手な形態としてインパクト極大だ。
こんな眼を見張る造形が生まれた縄文時代とは、改めていつごろのことを指すのかといえば、1万3千年前から2千〜3千年前あたり。旧石器時代と弥生時代に挟まれた、およそ1万年ほどの長い長い期間となる。
氷期が終わりを告げて、日本列島が現在に似た温暖湿潤な自然環境となったのがこの時期だった。豊かな山川草木に囲まれて、縄文の人たちは狩猟や漁、植物採集に勤しんでいた。
彼らの日課にはきっと、土器や装身具、土偶などをつくる時間がしっかり組み込まれていた。彼女たちは思うまま自在に手を動かし、さまざまなかたちをつくったのだ。縄文期の出土品には、土器とともにひとがたの土偶や、全身を飾る装身具も数多い。
ここで「彼女たち」と呼ぶのは、装身具はもとより土器・土偶など縄文創作物の繊細かつ大胆なデザインセンスからして、制作の中心を担っていたのは女性だったように思えてならないゆえ。
火焔土器に眼を戻せば、複雑かつ過剰ともいえるこの形態はいったいどこから来たのか。不思議でしかたがない。これが何を表しているか実際には不明で、名称の通り火焔、つまり炎をかたどっているのかどうかもわからない。渦を巻く文様は世界共通によく見られるパターンでもあって、水流だとかヘビを表しているという説も多い。
何を表しているかはともあれ、火焔型土器が実用に支障をきたすほど装飾過多なのは明らかである。なぜそうなるのか。いったん装飾の「芽」が生まれ出ると、全体とのつりあいを忘れて、部分にのみ集中する心理傾向が、この作者にははっきりと見受けられる。
部分的な装飾への偏愛、目の前のものに夢中になって没入する職人的な気質が、火焔土器から読み取れて、これは今に続く日本人の根本的な心性なんじゃないかとも考えられる。
他の時代・地域には類似のものが見当たらない、ぶっちぎりで独創的な縄文作品には、美的秩序を生み出さんとする「造形的意思」が横溢している。ルーツにこんなにとんでもない作品を持つのだから、日本の造形のその後の展開は大いに楽しみになってくる。
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