創作論7 「説明」「描写」「会話」のうち、小説やマンガで最も有効活用したい要素はどれ?
記憶の中からの創作論、6回目。 「説明」「描写」「会話」という小説・マンガの要素のうち、「描写」の有効活用法を。
小説は「説明」「描写」「会話」の3つの要素から成ると前回に述べた。
3つとも駆使するのが、書いたものをおもしろくする秘訣だ。
ただ小説の場合、描写にいっそうの力点を置くのがいい。小説が小説であるゆえんは描写にあるのだから。昔話、おとぎ話のような物語には、描写はあまり表れないはずである。描写を大胆に取り入れて、雑多なノイズを内包させてしまうのが、小説独自のおもしろさだ。近代的な物語という意味では、マンガでも同様に描写が大切になる。
描写でどこまでのことができるか。わかりやすく示すために、夢の表現を考えてみる。
寝て見る夢の世界を描き出すには、どうしたらいいか。空を飛んだりバケモノに追われたりと出来事、すなわちフィクションで夢らしさを出すのもいいが、それでは突飛なアイデアを競うばかりになってしまう。ここは描写を活用したナレーションで「らしさ」を出したい。
夢らしい読み味にするには。ずばり描写だけを使えばいい。会話と説明は失くしてしまう。それだけで、一挙に夢らしい書きものになること請け合いである。思えば夢で誰かと詳細に会話をするだろうか。くどくど状況説明を施すだろうか。しないはずだ。夢とは、ただただ描写だけが続く世界。
さらにいえば夢の特質は、矛盾して脈絡のないものが平然と近接してそこにあることだ。そうした異様な状況に対して意味づけや説明が一切なされない。どんなかけ離れたものでも、平然と並べて描写すれば、それだけで夢的な異様さが出る。
現実世界での意味づけや説明を引きずらないようにすれば、遠近法を撹乱することができて夢らしさが増す。現実世界で大きく見えたり扱われているものを小さく、ちっぽけで忘れ去られがちなものを大きく描いて、価値観を逆転させるのだ。
カフカ『変身』は全編が悪夢のような作品だが、あの話の異様なところは、朝起きると自分が毒虫になっているところじゃなくて、毒虫になったあとも部屋の片隅に残っている埃を気にしたりしているところ。もっと考えるべきおおごとがあろうに、些事にばかり気を取られるところに、遠近法の撹乱が見られて、読んでいる側は怖くなるのである。
また、因果関係など示されないのが夢の世界なのだから、夢の中の場面に接続詞はいらない。「にもかかわらず」「しかし」というのは意味づけであり説明だ。夢に「しかし」は必要ない。
夢には固有名詞も出てこない。「新宿駅で~」じゃなくて「大きな駅で~」とすればいい。同じように、時間も明示することはない。せいぜい「朝」とか「夜」でじゅうぶん。
夢の世界では、自分の姿を自分で見ていることが多い。なので、
「私は道を歩いていた。」
じゃなくて、
「私が道を歩いていた。」
と書きたい。
「私は」だと、語っている私と見られている私が密接している感じがするだろう。
ところが「私が」にすると、語る私と登場している私のあいだに、距離ができる。
自分の姿を自分で見ている夢の世界では、見る私と見られる私が分離している。現実世界とは異なるその距離感を、「は」と「が」の使い分けで表したいところだ。
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