
「みかんのヤマ」 5現国の授業 20211224
え、どういうこと?
思わず身を起こして向き直ったわたしの口から出たつぶやきは、鳴り始めた四限目の始業チャイムにかき消された。
気配でも察したのか、席に戻っていた南川くんが左斜め後ろに身体をひねり、眼を大きく開いてわたしを見た。
彼の眼に留まることなんてふだんないから、わたしはそのまま俯いてしまう。
すぐに現国の先生が教室へ入ってきて、授業が始まった。
振り向いて窓の外を確認しているわけにもいかず、わたしはさっき見たはずの光景を反芻するしかない。
背景に広がる蒼い空。こんもりした山容は濃い翠。その中腹でいきなりちいさくオレンジ色が爆ぜて、黒い一点の塊とともに翠色のなかにすべてが吸い込まれていった。
いくら眉間に皺を寄せて力んでも、色彩のことしか浮かんではこず、意味するところがいっこうに見えない。
言葉にならないことは、思考にも行動にもなりません。
逆にいえば、言葉をつくることが人の思考や行動、立派な社会をつくることにつながる。つまりは新しい日本語の構築こそ、文明開花への路だ! そんな気概を持って言葉と格闘したのが、今日取り上げる明治の文学者たちなのですよ。
いつしか現国の若井先生の声が教室を領していた。町のほうの学校からことし赴任した先生は声音も、細身に長いスカートを巻きつけたシルエットも可憐だ。
しかも授業が上手。ふつうに話として聴いて、おもしろい。
きっと、子ども相手だからと手加減するそぶりのないところがいい。
先生が黒板に展開する明治の文学者の世界に、わたしは惹き込まれていった。
逃避してないか、わたし? という不安はむりやり呑み込んだ。そう、いつも何事も、目を背けて逃げ出すわたしの悪い癖が、いまもまた頭をもたげている。