
チゴイネルヴァイゼン 3 20211018
今宵のKの奥さんの用向きもまた、Kの蔵書を取りにきたというものだった。今日は語学の参考書だった。言われてみれば思い当たる。Kがずいぶん前に置いていったような記憶がある。
それにしても、なぜこうも正確に書名を言い当てられるのかは不思議だった。Kは貸し借りをつど書き付けておくようなタイプじゃなかったはずだが。
こんな夜更けにばかりやってくるのも気になった。
K夫婦には一人娘がいた。もう小学校に入ったか、これから上がるのだったか。息災を尋ねれば、奥さんはおかげさまでと応える。
今日はどうしてるんですか。どこかへお預けに?
と問うと、いいえ連れてきましたが、往来で待っておりますという。
「どうにも門を潜りたがらないものですから」
置きっぱなしなのですか。物騒ですから上がらせなさいと促しても、
「いいんです。何を言っても聞きやしません」
きっぱりと言う。
しようがないのでこちらは慌てて所望の本を探し出す。手渡すと、ろくに書名を確認するでもなく受け取り門を出ていく。
他に物音もしない往来に、すたすたと歩く足音と、あちこち跳ね回りじゃれかかるような不規則な子どもの足音が響いて、徐々に小さくなっていった。
それだけ耳にすれば風情がありそうだが、こちらとしては自分が身寄りのない母子を呼びつけ、いたぶっている高利貸しか何かのような気がしてきて、あまり愉快なものじゃない。
書斎に戻り、ひとり座っていてもいっこうに気分は晴れなかった。さらに強まった風が窓ガラスをガタピシ揺らすのも癇に障る。
もう寝てしまおうと部屋を出ると、玄関のほうから風が立てるそれとは違った物音がする。家の中へ何かを呼びかける人の声だ。
応えてみれば、向こうからはやはり女の低い声がする。むろんKの奥さんである。
「もうお休みになる時分にすみません。気になるもので」
戸を開けて事情を訊けば、もう一冊いただいていきたいのがあることを思い出したとのこと。時間を勘定すればKの家まで戻って出直したとは思えない。帰り道の途中で引き返したか。
娘さんは? また往来に?
奥さんは「いいえ。でもだいじょうぶなんです」と小さい声ながらぴしりと言う。
そんな態度を見せられては、こちらの気が急く。所望の本を探そうとするが、今度のはちょっとKに借りた覚えがなく、家のどこにあるのだかも心当たりがない。
長く待たすわけにもいかず、探索は早々にして玄関先へ舞い戻った。すぐには見当がつかないものだからきっと探しておきます、近くお宅へお届けにまいりますよと伝えた。
奥さんは口元をもごもごっとさせて何か言おうとしていたが、止しておくことにしたらしくただ黙って深々とお辞儀をし、踵を返した。
彼女の背中はすぐ夜陰に紛れた。戸を締めるとき半身が外気に触れた。変わらず風は強い。ただ風の孕む温もりがさっきまでとは違う。季節が変わるのだ。家の外では時間が流れているのを実感した。
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