『ドライブ・マイ・カー』は「中年讃歌」である 〜読み書きのレッスン〜
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『ドライブ・マイ・カー』は「中年讃歌」である 〜読み書きのレッスン〜

 2時間59分という長大な上映時間は伊達じゃない。『ドライブ・マイ・カー』の作中にはたくさんの考えるべきことが内包されていて、いちどきに語るなんてできそうにないけれど、まずはひとつ大事なテーマを挙げるとすれば……。

「中年、いかに生きるか」
である。これを今作は強く問うている。

 まずもって、「こんな大人になりたい」ナンバーワンたる、西島秀俊が主要人物を演じているのが象徴的だ。この一事だけでテーマが際立つ。
 とりわけ僕にとってはそう。というのも西島秀俊は僕の憧れ中の憧れ、アイドルだから。
 もしもひとつ願いが叶うなら、西島秀俊と入れ替わりたい……。前からそう思っていたけど、『ドライブ・マイ・カー』を観れば、そんな気持ちはいっそう募る。
 全編にわたって見られる、諦念と毅然の入り混じったあの表情。どんな生き方をしたらあんな「これぞ大人」な風情を漂わせることができるのか。カッコよすぎ。

 西島演じる演出家・役者の家福悠介は、身辺に何が起ころうとも、まずは自分の情動・感動を抑え込み、言動を乱したりはしない。
 たとえば、仕事でロシアへ向かうため成田空港に着いたタイミングで、先方からフライト予定を一日遅らせる旨いきなり通達されても、声を荒げるでもなく黙って粛々と引き返す。
 滞在制作を依頼された広島までわざわざ愛車で赴いたのに、事故の恐れがあるので本人が決して運転しないよう事務局から申し渡されても、「やれやれ」と嘆息しつつ受け入れる。
 さらには自宅で妻が不倫している現場を目撃してさえも、憂いの表情を浮かべつつ黙って引き下がってしまう。
 なぜ彼はいつもすべてをぐっと呑み込み、何でもないような顔でまた仕事へと向かうのか。

 彼が経験した過去の事情も理由の一端になっているけれど、それも含めて家福がいろんな経験を積み重ねてきた「中年」であることが、彼のポーカーフェイスぶりを可能たらしめている。
 社会のなかのピースとして自分の居所を定めた中年は、何が起ころうと滅多なことでいちいちわめき騒いだりはしないもの。そんなことをしていては社会のなかで割り振られた務めが果たせなくなる。揺れない・ブレない・動じない、いわば鈍感力を磨くことが生存戦略である。
 それに、中年の視界には、若い時分には誰もが描く空想的な未来なんてもう映らない。そもそも目の前には具体的にやるべきことが山積しており、過去を振り返り浸っているようなヒマもないし。
 つまり中年は、今だけを見つめるしかないのだ。永遠に続く、変わり映えしない今を生きる。それが中年の定めである。

 となると、自分の「今」があまり理想通りではなく、好もしくないものだと、相当につらい思いをすることになる。意に沿わぬ情況・晴れない気持ちを抱えたまま、いつ果てるとも知れぬ時を過ごすのだから。それはまるで煉獄に閉じ込められているかのよう。そんな生殺しの状態にいるくらいなら、いっそ苛烈な苦痛の渦に陥る地獄で過ごすほうがいいかもしれない。
 中年の典型たる家福は、煉獄の真っ只中におり、どこにも行き着けない。彼のドライバーとなるみさきも過去を引きずり靄のかかった「今」を生きているが、年若い彼女には戻りたい場所(生地の北海道)があり、新しく再出発する途もほの見える。家福には戻るべき場所も目指すべき場所もない。
 孤独な男の深い喪失感と哀感がよく表されているのは、さすが村上春樹小説を原作にしているだけのことはある。春樹作品はそのあたりを繰り返し描いてきたものだから。とすると、村上春樹は青春小説の書き手と目されることが多かった(とくに初期作)けれど、どちらかというと最初っから「中年小説」の趣を湛えていたのだなと気づく。

 演劇人たる家福は作中、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を演出し、みずから出演することにもなる。そうして、煉獄にいる中年の心境をまんま言い表したようなこんな台詞を口にするのだ。

 なんとかしてくれよ! ああ、神様……。ぼくは四十七だ。六十まで生きるとして、まだ十三年ある。長いなあ!この十三年をどう生きればいいんだ? 何をして、何でこの歳月を埋めればいいんだ?君にも分かるだろう……。
 分かるよね、残りの人生を新たに生き直せたらなあ。晴れやかでおだやかな朝に目を覚まし、自分はもう一度人生を新たにはじめるんだと感じられたらなあ。これまであったことはすべて忘れ、煙のように消し飛んでしまった──そんなふうに感じられたらなあ。
 新しく生活をはじめる……。教えてくれ、どうはじめたらいいのか……何からはじめればいいのか……。

 煉獄に堪え続ける家福はクライマックスで、みさきの力も借りながらひとつの境地に達する。それはひとことで言えば、
「それでも生きていかなければ」
 というもの。単純だけど、力強い。
 ただこれってつまり、表面上はとり立てて何も変わらない。家福が基本渋面でいることは、きっとこの先も同じだ。ただし瞳の奥に、ほのかに意思の灯を宿したようにも感じられて、すこしだけ人に与える印象が違っているかもしれない。
 なされるがまま煉獄に囚われて生きる状態から、煉獄で生きていくしかないと自分で覚悟を決めた状態へ移ったというか。微妙な違いだけど、これが作品を通して家福に訪れた変化だ。
 その変化は、彼が妻のくびきから放たれたことから生じている。
 家福の妻は、脚本を書く人だった。家福自身は演出家であり、役者という演者でもある。
 ふつう芝居をつくるにあたっては、演者は演出に沿って動き、演出は脚本に沿ってつけられる。つまり大元となる行動原理は脚本が握っている。そうした職業上の振り分けそのままに、実生活においてもこれまでの家福は、「脚本=妻」から逸脱することなく、演出家・演者としてふるまってきた。
 が、そろそろいいのではないか。みさきが、彼女の人生の脚本家だった母親から脱して、自分で自分を演出していこうとする姿に感化されたこともあろう。家福は「妻=脚本」から離れ、すこしずつ自分の思うように演じるようなっていくのだ、きっと。

 青春映画は世にたくさんあるが、カッコいい中年映画はなかなかない。『ドライブ・マイ・カー』はそこに果敢に挑戦した作品なんだろう。
 文学は老年の事業である。大意そんなことを言ったのは、文芸批評家の中村光夫だった。うなずけるところ大いにあり。青春映画・青春漫画・青春小説……ばかりが力を持ってきた流れを、そろそろ変えてもいいんじゃないか。
 『ドライブ・マイ・カー』みたくカッコいい中高年作品をもっと礼賛しよう、創り出していこうと意を強くした次第。

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ライター。アート、写真、文学、教育、伝記など。 著書に「上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史」など。 好物はマドレーヌ、おにまんじゅう。 【Twitter】@reading_photo   info@yamauchihiroyasu.jp