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創作論15 言葉で世界を立ち上げること

記憶の中から紡ぐ創作論の14回目。

小説なら文章だけで、マンガは絵と言葉を用いて、世界を立ち上がらせる。
徹底的にこだわり考え抜いてこそ、イメージをつくることができる。
そのみごとな例として、大江健三郎『万延元年のフットボール』をみてみる。
冒頭からして、きらびやかな比喩表現で圧倒される。

「内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。」

つまりは、手さぐりがむなしいというだけのことなのに、これだけ言葉を費やして、雰囲気とイメージをつくっていく。
続けて、

「力をうしなった指を閉じる。」

とくる。長い文章のあとの短い文章はかっこよくて印象に残る。


「そして、躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわ
ってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。」

肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚される状態なんて、見たことも聞いたこともないけれど、大江はそうした新奇な状態を、ここで発見しているわけだ。
誰もが知っている肉と骨の状態じゃなくて、自分だけの感覚をここに表している。オリジナリティとはこういうことをいう。


話を進めるうえで必要な情報の入れ込み方も巧みだ。

「陽がのぼるまで一時間はあるだろう。それまでは今日がどのような日であるかを把握できない。胎児のように、なにもわからないで暗闇のうちに横たわっている。かつてはそのような時、性的な悪習が便利だった。しかし、二十七歳、既婚、養護施設にいれた子供までいる現在では、手淫をする自分を考えると恥かしさが湧きおこってたちまち欲望の胚子をひねりつぶす。」

小説序盤の記述だ。主人公の人物像を、「二十七歳、既婚、養護施設にいれた子供までいる」と、描写や表現の流れの中で的確にさりげなく入れ込んでいる。
こういうのを小説的技術というのだ。

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