第二十二夜 「孤独の研究」木原武一
「人生の最高の友であり、最大の敵でもある」のが孤独である。そう喝破する文芸評論家の著者が、ピュリツァー、ニーチェ、グレン・グールド、プルーストらを例にとりながら、孤独とのつき合い方を考えていく。
歴史上の偉人たちがどのように孤独だったかが詳述されるのだけど、そのエピソードの数々から孤独の正体が見え隠れする気がした。
人が孤独であるかどうかは、どうやら他人との付き合い方や距離感に関わることじゃなさそうだ。それよりも、自分とどう向き合い、付き合うかの問題。
物理的に周りに人がいなかったり、わかりあえる相手が身近にいなかったりしても、それだけで孤独というのじゃない。誰かとつながる意思を持っているかぎり、人は孤独には見えない。つながることに成功しているか否かは、関係ないのだ。
だからすくなくとも、何かものを書いている人って、孤独に思えない。書くとはいつだって、つながろうとする意思に支えられた行為だから。
吉田兼好「徒然草」は、いかにも孤独を表現した随筆のように思われているけれど、じつは「孤独な感じ」を見事に演出に使っているだけであって、むしろなんかいい感じではないか。憧れちゃうほどに。孤独をエサに、人とつながろうとする気が満々だ。
「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
と。
書いている人は孤独じゃないと言ったけど、さらに加えれば、言葉が周りにある人はそれだけでもう孤独じゃないということだろう。
言葉はコミュニケーションの道具なのだから、自分の周りに言葉が行き交っているなら、それはコミュニケーションの可能性に満ちた世界に身を浸しているということ。その人は孤独じゃあり得ない。
言葉のない世界に、孤独はある。
何らかの事情で言葉を使って自分と向き合うことができない人、自分の中に言葉のひとつも見つけられずただ心細く震えているだけの人。それが孤独な人間なんだろう。そういう人は、かなり稀有な存在じゃないかと思える。
文芸史上、真に孤独だった人物は誰だったろう。にわかに思いつかない。探索を続けてみたい。