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第四夜『きことわ』 朝吹真理子


  ふたりの少女が葉山で出会い、夏のひとときを過ごす。永遠子と貴子は年齢こそ違えどよく通じ合い、他の者がとうてい入り込めない世界を築いている。

  ふたりだけの世界が確固としてそこにある、そう感じさせるのは叙述のしかたによる。

  ふたりが特別なことをしたり言ったりするんじゃなくて、ただただ五感に訴えかける描写が積み重ねられて、作品世界ができていく。言葉も一つひとつ磨き上げられていて、詩的な文章を読むこと自体が快楽だ。

  たとえば、海辺で遊ぶふたり。貴子の目に入ってしまった睫毛を、永遠子がとってやろうとする。

 「貴子の下まぶたに、永遠子は自分の手をそっとあてる」  永遠子の手は冷たい。なんとかうまく睫毛をとってやると、ありがとうと貴子が抱きついてくる。

 「貴子の皮膚はやわらかく、虫にさされやすかった」 

  そして、 

「貴子からたちのぼる蚊よけの薄荷のにおいによって、永遠子は自分の肌からは日焼け止めの甘いにおいがしているのがわかった」

  視覚だけじゃない、読む側のあらゆる感覚器官が、言葉で刺激されていく。

  出会いから二十五年が経ち、大人になって再会したふたりのやりとりも、変わらず五感に働きかける。

 「永遠子が手を離そうとすると、『ありがとう』と言う貴子のしめった息が手首のうらにかかった」

  これは。官能的に過ぎる。

  自分の印象や感覚以外に依って立つものなどなにもない。この作品世界はそういう原理でできているから、時間の流れ方だって主観的で独特のものになる。 

 カップラーメンを待つ三分間は、 

「これだけ時間があれば宇宙の基礎くらいきっとできる」  

 と表現されるし、子どものころの永遠子と貴子がじゃれあっているときに大人が発した、

 「こうしているうちに百年と経つ」 

 という言葉は、二十五年後にもふたりの記憶に残っていたりする。 「百年」という言葉は、ここで「永遠」と同義で用いられている。厳密さのかけらもないこの使用法をされるとき、百年というありきたりの単語は一気に艶を帯びる。

  先行例は、夏目漱石『夢十夜』だ。第一夜、女が静かな声で「もう死にます」と言い、死んだら埋めてほしい、いずれまた逢いに来るからと続ける。そうしてさらに、

 「百年待っていて下さい」 

「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

  漱石は百年を「永遠」の意で用いたり、愛していると言うべきところを「月が美しい」などと表現したり。言葉の曖昧さを厳格に保とうとしているというか、感覚に徹底的に忠実であろうとしながら文章をつくる。

  そういえば『夢十夜』第一夜では、  

「土をすくう度に、貝のうらに月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした」

  と、五感をフル発動させた書き方の箇所もある。感覚を表すに優れた日本語のポテンシャルをどこまでも引き出そうと、漱石は実験を繰り返した。同じ実験を、今なら朝吹真理子が、着実に続けている。

 きことわ

朝吹真理子 

新潮文庫

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